日本の歴史江戸時代

江戸時代の鎖国ー唯一の貿易窓口「出島」をわかりやすく解説

日本の江戸時代は、そのほとんどの期間が鎖国をしていました。鎖国は、外国との貿易や交渉を絶つことを言います。しかし、江戸時代の鎖国では、長崎に出島を設けて、そこを通じて中国とオランダと貿易を行っていたのです。そのため、蘭学も生まれました。この江戸時代の鎖国・出島について解説します。

日本の鎖国は貿易をおこなっていた_鎖国は江戸時代だけだったのか

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鎖国と言えば、日本人が思い浮かべるのは、やはり江戸時代ではないでしょうか。鎖国は、外国との接触を絶って自国内だけの閉ざされた社会を志向する政策で、国内に波風を立てたくない時に用いられます。江戸時代の当初は、ポルトガルやスペインなどのヨーロッパの外国船が頻繁に訪れて、交易(貿易)を堺などの商人とおこなっていました。しかし、もともとポルトガルやスペインなどの交易目的には、キリスト教のカトリック宣教師を送り込んで、植民地化の足掛かりとする目的があったのです。アジアでも、フィリピンなどは実質的な植民地化していました。

武家社会になっていた日本でも、カトリック宣教師たちは、諸国で庶民との交流を通じて、信者を増やしていきました。武家社会の封建制度の大名、武家などに従うのではなく、神の元ではすべての民は平等という考え方が人気を得ていたのです。しかし、大名が支配する領地を、征夷大将軍が安堵(保証)することによって成り立っていた江戸幕府の天下にとってはゆゆしき事態でした。そのために、徳川家光は、順次鎖国令は範囲を広げながら出し、1639年にポルトガル船の来航を禁止します。宣教師らも追放されました。さらに1641年には出島を作って、中国とオランダの交易に限定し、外国との接触を禁じたのです。これで事実上の鎖国となりました。

鎖国は日本だけで行われたのではない

鎖国政策は、日本特有のものではありません。中国の明でも15世紀には鎖国され、その政策は、明を滅ぼした清でも継続されています。ただし、中国の属国扱いになっている周辺国との交易は行われていました。また、日本の大名制度とは違って官僚が地方に派遣されていたため、太平洋側の長い海岸線をすべて管理することはできません。中には自分の財産を増やすために、鎖国令を破って積極的に貿易をする役人もいました。

19世紀になると、産業革命によって近代的な生産設備を持ったヨーロッパ諸国は、大量生産された製品を販売するために、アジアに進出してきたのです。かつてのポルトガル、スペインに代わって、イギリス、フランス、オランダなどが進出しました。

イギリスの三角貿易による清の鎖国破り

イギリスなどは、植民地にしていたインドの綿花をイギリスに輸入し、綿製品などを清に輸出し、清からは紅茶や絹などを輸入していたのです。これは三角貿易と言われました。それに気づいた清は、鎖国管理の強化をおこなおうとしますが、イギリスを怒らせてしまいました。イギリスは、報復として、インドのアヘンを中国に輸出して、清国内では多くのアヘン中毒患者が蔓延するようになったのです。清は、アヘンの取締りをしようとして、ついにイギリスと戦争になってしまいました。その結果、清は戦争に敗れ、香港の割譲や不平等条約を強要されて開国をし、正式な交易をさせられたのです。

それ以外にも、朝鮮王朝も鎖国政策をとっていました。中国は宗主国であり、交易はおこなっていましたが、日本などとの交易は認められていなかったのです。日本との交易が認められたのは、1876年の高価嶋事件の後に日朝友好修好条規が結ばれてからでした。

鎖国政策が徹底されなかったが新しい情報は伝わらなかった清

清などは、鎖国令を出していましたが、それが徹底されず、ヨーロッパの先進諸国につけ込まれたのです。ヨーロッパの先進の近代装備の船舶、武具などの情報が、太平洋岸の一部商人に握られ、清王朝には知らされていませんでした。アヘン戦争やその後のアロー戦争などでも、清軍は古い装備で戦い、ヨーロッパ諸国には歯がたたなかったのです。

国として鎖国で他国との接触を絶ってしまったために、国外で産業革命などの文化、科学面での大きな進歩があっても、それが知らされませんでした。他国に対して大きく遅れをとってしまったのです。

日本の鎖国と出島限定の貿易に至る経過

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日本の鎖国は、急に始まったものではなく、いくつもの段階を追って始まっています。江戸時代の前の豊臣秀吉の時代からすでに始まっていました。その過程を見てみることにしましょう。

豊臣秀吉の時代から規制が始まった_御朱印船貿易

外国との貿易やキリシタン(キリスト教徒)の弊害は、すでに豊臣秀吉の時代から認識されていました。堺の商人などが外国との貿易を独占して、巨額の利益を儲けて、大名などとの商売で、国内政治にも影響を与えていたからです。小西行長などのように堺出身の大名もいました。そのために、秀吉は、外国との交易には御朱印状を出した商人に限るようにしたのです。キリスト教の禁教令も出されています。

ただ、あくまでも堺の独占を防ぐ意味での御朱印船制度であり、外国との貿易は逆に西日本の主要港に広がって行きました。海外に渡る日本人も現れます。タイに渡った山田長政などは有名ですし、仙台伊達藩は、少年たちや支倉常長らを、ヨーロッパに慶長遣欧使節団として派遣していました。

倭寇との違いをはっきりさせた勘合貿易

もともと日本の外国交易は中国との貿易が中心でした。遣唐使、遣隋使などはその初期段階です。また、東シナ海や黄海などでは、古代から倭寇と呼ばれる日本の水軍が、交易をやりながら、時には海賊となって船を襲ったり、中国や朝鮮半島の海岸の村を襲ったりしていました。

そこで、室町幕府の足利義満は、勘合と呼ばれる割り符によって、正式な交易をおこなう商人が区別できるようにしたのです。これを勘合貿易と言います。これによって倭寇は減り、明が鎖国をするまでは栄えていました。

割り符は、二つに割られた木の札で、その割れ口が一致しなければ、交易が認められないようになっていたのです。

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