幕末日本の歴史江戸時代

5分でわかる「坂下門外の変」なぜ起きた?桜田門外の変とどう違う?わかりやすく解説

井伊直弼を闇討ち!「桜田門外の変」勃発

徳川慶喜を押す一橋派の中心人物は、慶喜のお父さんであり水戸藩主であった徳川斉昭でした。

要するに、アンチ井伊直弼の筆頭です。

井伊直弼の安政の大獄により、一橋派の勢いは急速に低下し、孝明天皇もいったん引き下がります。

腹の虫がおさまらないのが、徳川斉昭率いる水戸藩でした。

ただ、水戸藩も、井伊直弼の弾圧に対して「まあ、仕方がないんじゃない?これ以上弾圧されても困るし」という慎重派と、「天皇をないがしろにするなんて井伊直弼ゆるせねぇ」という過激派に分裂してしまいます。

そして、過激派グループはとうとう「井伊直弼暗殺」を計画。実行に移します。

安政7年3月3日(1860年3月24日)、雪がちらつく中、白昼堂々の襲撃。この日は雛祭りが行われ、多くの人が江戸城にやってきていました。人ごみにまぎれ、井伊直弼が乗る籠に向けて拳銃を発砲。刺客たちは次々と井伊の籠に襲い掛かり、井伊直弼の首を取ります。

幕府と朝廷が急接近!尊王攘夷派と公武合体

水戸の脱藩浪士たちが尊王攘夷を掲げ、井伊直弼を襲撃し暗殺した「桜田門外の変」。

この後、幕府は事態を重く見て、天皇と接触をはかります。幕府と天皇がうまくやっているところを世間に示し、尊王攘夷派の怒りを鎮めようとしたのでしょう。

天皇と幕府が一丸となって異国の脅威に立ち向かう「公武合体(こうぶがったい)」という政治体制を築こうとしたのです。

具体的には、孝明天皇の妹にあたる和宮(かずのみや)が、将軍徳川家茂のところに嫁ぐ、というもの。いわゆる政略結婚です。

老中・安藤信正が中心となり、政略結婚の準備が進められていきます。

開国?戦争?揺れ動く日本と「坂下門外の変」

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強硬な井伊直弼路線から、幕府と朝廷の連携を模索する公武合体へ。柔和で柔軟な安藤信正路線は、幕府・朝廷がひとつになり、異国船など様々な難題と向き合う姿勢を示します。しかし、世の中に広まった尊王攘夷の思想はますます強固なものになっていました。そしてこの老中・安藤の政策も、尊王攘夷派の怒りをかうことになります。その結果、発生したのが「坂下門外の変」なのです。

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