井伊直弼を闇討ち!「桜田門外の変」勃発
徳川慶喜を押す一橋派の中心人物は、慶喜のお父さんであり水戸藩主であった徳川斉昭でした。
要するに、アンチ井伊直弼の筆頭です。
井伊直弼の安政の大獄により、一橋派の勢いは急速に低下し、孝明天皇もいったん引き下がります。
腹の虫がおさまらないのが、徳川斉昭率いる水戸藩でした。
ただ、水戸藩も、井伊直弼の弾圧に対して「まあ、仕方がないんじゃない?これ以上弾圧されても困るし」という慎重派と、「天皇をないがしろにするなんて井伊直弼ゆるせねぇ」という過激派に分裂してしまいます。
そして、過激派グループはとうとう「井伊直弼暗殺」を計画。実行に移します。
安政7年3月3日(1860年3月24日)、雪がちらつく中、白昼堂々の襲撃。この日は雛祭りが行われ、多くの人が江戸城にやってきていました。人ごみにまぎれ、井伊直弼が乗る籠に向けて拳銃を発砲。刺客たちは次々と井伊の籠に襲い掛かり、井伊直弼の首を取ります。
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水戸の脱藩浪士たちが尊王攘夷を掲げ、井伊直弼を襲撃し暗殺した「桜田門外の変」。
この後、幕府は事態を重く見て、天皇と接触をはかります。幕府と天皇がうまくやっているところを世間に示し、尊王攘夷派の怒りを鎮めようとしたのでしょう。
天皇と幕府が一丸となって異国の脅威に立ち向かう「公武合体(こうぶがったい)」という政治体制を築こうとしたのです。
具体的には、孝明天皇の妹にあたる和宮(かずのみや)が、将軍徳川家茂のところに嫁ぐ、というもの。いわゆる政略結婚です。
老中・安藤信正が中心となり、政略結婚の準備が進められていきます。
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