幕末日本の歴史江戸時代

5分でわかる「坂下門外の変」なぜ起きた?桜田門外の変とどう違う?わかりやすく解説

公武合体とは何事ぞ!?尊王攘夷派は超激怒

皇妹・和宮と十四代将軍徳川家茂との政略結婚の話によって、井伊直弼による安政の大獄によって弾圧された大名たちも再始動します。

一方、朝廷側はというと、公武合体に反対する声が多かったようです。何しろ孝明天皇がこの話に乗り気ではありませんでした。

当然、尊王攘夷派たちも「天皇をないがしろにするのか!」と怒り心頭。幕府が孝明天皇を廃位させるつもりなのでは?という噂まで流れて、老中・安藤への憎悪を募らせるものもいたようです。

しかし、岩倉具視のように「幕府を監視する好機」と見て、公武合体に賛成する公家もいます。

そしていよいよ、和宮の降嫁(こうか)が決定。文久元年(1861年)10月、和宮は家茂との婚儀のため、京都を出て江戸へ向かいます。

ここからさらにに、尊王攘夷派の動きが活発になっていくのです。

水戸脱藩浪士による老中・安藤信正暗殺計画

公武合体など許しがたき。尊王攘夷派たちの中には、公武合体の中心人物のひとりで幕府の重臣である老中・安藤信正の暗殺計画が持ち上がります。

これがいわゆる「坂下門外の変」です。

中心となったのは、またしても水戸藩の過激派グループの面々6人

決行日は文久2年1月15日(1862年2月13日)となりました。

実際には、もう少し早いタイミングで実行しようとしていましたが、なかなか機会に恵まれず、延期延期となってしまっていたようです。

年が明けて1月15日、この日は江戸城で将軍拝謁などの行事があるため、老中の行列が坂下門の前を通ることになっていました。水戸藩士たちは桜田門外の変にならって、白昼、人ごみにまぎれて行列に特攻しようと考えます。

警備は厳重・傷を負わせるも暗殺は失敗に終わる

1月15日午前8時頃、老中・安藤信正の行列が坂下門の近くに現れました。

今こそ決行の時です。水戸藩浪士たちは行列の前に躍り出ます。まずひとりが籠に向かって発砲。これを合図に、残りの5人が行列に襲い掛かります。

しかし、襲撃は思うように進みませんでした。2年前に起きた桜田門外の変の後、大名の登城の際の周辺の警備が強化されており、この日も50人以上の警備が出張っていたのです。

それでも現場は大混乱。入り乱れての斬り合いが続きます。

籠に刀を突き立てられ、安藤信正は背中を負傷しますが比較的軽傷で、自力で城内に逃げ込み、命は助かりました。

水戸藩浪士たちが6人とも死亡。安藤信正暗殺は失敗に終わります。

一方の幕府側はというと……。桜田門外の変に続いて、2年とたたないうちにさらに襲撃事件が起き、面目丸つぶれです。安藤信正は「武士のくせに背中を着られるとは」などと言われ、老中を罷免されて強制隠居。この後、幕府の力は急速に低下していくのです。

幕末へ急加速!桜田門外の変の2年後に起きた「坂下門外の変」

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安政の大獄への反発から発展した「桜田門外の変」は、大老・井伊直弼暗殺に成功したこともあり、この呼び名は世に広く知れ渡っています。同じような状況で、公武合体への反発から起きた「坂下門外の変」は、暗殺未遂に終わったせいか、桜田門外ほど、その名前が語られる機会が少ないように感じていました。2度も起きた門外の襲撃事件。先の見えない世の中で、幕府も朝廷も尊王攘夷派も、みんな不安だったはず。「坂下門外の変」のことも、もっと語られていいのでは、と感じました。

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