日本の歴史

最強の城ランキングTOP15!古代から明治時代まで日本の最強の城をわかりやすく解説

錦城鉄壁の大城郭から苔むす居館跡まで、日本全国にはなんと5~6万もの城が存在しています。日本の歴史はまさに戦いの歴史と言っても過言ではありませんが、城の形態も時代とともに大きく変化しています。守るのに有利な峻険な山城や、兵隊を何万人も収容できる巨大城郭など、一口に城といっても様々なカタチがあるものです。そこで古代から明治時代に至るまで、「これは最強!」だといえる城をランキング形式でご紹介していきたいと思います。

1.【第15位】若き当主を支え続けた城~大和布施城~

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大和国(現在の奈良県)は興福寺が大きな権力を握り、「衆徒(しゅうと)」と呼ばれる領主たちが各地を支配していました。その中でも筒井氏は筆頭格と呼ばれるほど大きな勢力だったのです。しかし大和国にも戦乱の嵐が吹き荒れようとしていました。

1-1.筒井氏と松永氏の抗争

戦国時代の筒井氏は非常に大きな勢力を持っていましたが、当主の順昭が28歳という若さで亡くなり、その跡をわずか2歳の順慶が継ぐことになりました。

弱体化した筒井氏に対して、畿内を牛耳っていた三好氏の家臣松永久秀が大和国を我が物にしおうとします。まだ16歳だった順慶は、家中の統率もままならずに居城の筒井城を追われ、布施行盛の居城である布施城へ匿われることになったのです。

この布施城は葛城山の中腹にある大変な堅城で、ことごとく松永軍の攻撃を跳ね返したといいます。

1-2.6年間も順慶を守り続けた布施城

思わぬ抵抗に遭った久秀は、1568年に上洛した織田信長に臣従したうえで「大和国は切り取り次第」のお墨付きを頂戴し、織田の援軍を得た上で、なおも布施城を攻め立てることにしました。

しかしそれでも布施城は落城しません。攻められるばかりではなく順慶は、この城を拠点として反撃に出て、筒井城の奪回にも成功しているのです。

ついに6年もの間、松永軍の攻撃を耐え抜いた布施城は、落城することがないまま当主の順慶を守り続けました。やがて順慶は信長に接近して信頼を勝ち取り、後に松永久秀が謀反によって滅びることによって完全に地歩を固めることができたのです。

2.【第14位】戊辰戦争のクライマックスとなった城郭~五稜郭~

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函館にある五稜郭は、日本の城としては似つかわしくない五角形をしています。これは西洋式の技術を取り入れた築城法で、攻撃の死角をなくすための工夫が施されているのです。しかし戊辰戦争末期、この城は新政府軍と旧幕府軍との最終決戦の舞台となったのでした。

2-1.北へひたすら逃げる旧幕府勢力

鳥羽・伏見の戦いから勃発した戊辰戦争は、新政府軍が逃げる旧幕府軍を追っての展開となりました。やがて徳川氏のお膝元といえる江戸城が開城し、戦いの舞台は東北地方へと移っていくのです。

奥羽越列藩同盟を結成して必死に抵抗を続ける旧幕府軍ですが、西国諸藩を糾合し、新式兵器を装備した新政府軍の前に敗北を続けます。

1868年10月、旧幕府勢力の旗頭というべき会津藩が若松城を開城して降伏すると、もはや勝敗は決しました。しかし榎本武揚を首班とする旧幕府軍は、旧幕臣のために蝦夷地(北海道)への移住を決意し、新たな独立国を作ろうとしたのです。

北海道へ到着した旧幕府軍は、まず現地の平定に取り掛かりました。土方歳三を大将とする部隊は松前城をあっという間に落とし、素早く要地を確保しました。そして蝦夷共和国を樹立したのです。

2-2.戦場となった五稜郭

しかしそのようなことを新政府が許すはずもありません。1869年4月、終結した新政府軍は函館の上陸。各地で激しい戦いが繰り広げられました。

旧幕府軍は頼みの軍艦も宮古沖海戦で失ってしまっており、海上からの援護も期待できない有様でした。逆に新政府軍の艦砲射撃は五稜郭を直撃し、大きな被害を出してしまったのです。

やがて5月に入ると、旧幕府軍が守備していた要地も次々に奪取され、本営の五稜郭へ敵が迫ることとなりました。新政府側の降伏勧告によって榎本は降伏を決し、多くの犠牲を出しつつも開城に踏み切ったのです。

この城が戦場になることはありませんでしたが、もしそうなっていたら相当の威力を発揮したのではないでしょうか。

3.【第13位】上杉も北条も落とせなかった関東七名城の一つ~唐沢山城~

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栃木県佐野市に位置するこの城は、関東でも非常に珍しい高石垣を持つ戦国山城として知られています。ちょうど上杉と北条の勢力圏の境目にあったがために抗争が絶えなかった地域で、江戸時代初期に佐野城が築かれて廃城となりますが、その高石垣を用いて、過去幾度となく強敵を撃退し続けた天下の堅城だったのです。

3-1.上杉と北条に挟まれる佐野氏

戦国期、越後の上杉謙信は北条氏と抗争を繰り広げており、関東管領の名のもとにたびたび関東へ出兵していました。

しかし謙信が去ると北条が攻めてきて、その土地を奪い返すというまるで積み木崩しのような状況が続いていたのです。

もちろん二大勢力に挟まれた弱小勢力が生き残るには、あっちについて。こっちについて。といったしたたかさを持ち合わせていなければ滅ぼされるだけ。唐沢山城主の佐野昌綱もそんな立場の一人だったのです。

3-2.相次いで攻められる唐沢山城

1559年、上杉と結んだ昌綱は北条軍3万5,000の侵攻を受け、上杉の援軍もあり辛くもこれを撃退します。この戦いがまず1度目。そして都合10度にもわたる唐沢山城攻防戦が繰り広げられることになりました。

そして翌々年3月、関東から上杉軍が撤退したため北条の大軍が城に迫ります。この時にはさすがに抗しきれずに一旦は開城。上杉とは手切れになったため、今度は上杉の大軍が押し寄せてくることに。この時は冬場だったこともあり、なんとか持ちこたえました。

3-3.ひっきりなしに続く攻城戦

前年の冬から間を置かずに春がやってくると、再び上杉軍が押し寄せてきました。しかし上杉はまたしても要害に阻まれて城を落とせなかったのです。そして昌綱が亡くなり次代の宗綱に家督が譲られました。

しかし、ここから宗綱の巧妙なしたたかさが発揮されるのです。1563年、再び関東に入った謙信になぜか今度はあっさりと降伏。再び上杉側に味方するのですが、直後に養子の虎松丸と不和になり、佐野一族を巻き込んだ争いにまで発展することになりました。

結局、虎松丸に味方した上杉軍にまたまた城を攻められますが、城内に大量の鉄砲を保有していたこともあり、見事撃退することに成功したのです。

4.【第12位】浮き城で見せた姫の武勇~忍城~

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映画「のぼうの城」で一躍有名となった忍城。戦国の頃には利根川と荒川の扇状地にある立地を利用して、水堀と沼地を巧みに使った縄張りで敵を寄せ付けませんでした。上杉謙信も落とせず、豊臣の大軍の前にも屈しなかった忍城。そこではどんな戦いがあったのでしょうか。

4-1.押し寄せる豊臣の大軍

1590年、関係が手切れとなった豊臣氏と関東の雄北条氏との間で大規模な戦いが起こりました。いわゆる小田原の役なのですが、豊臣側は空前の大兵力20数万を動員し、北条氏の本拠小田原城を囲むことになりました。

小田原城周辺の北条方の城でも激しい戦いが行われ、山中城や松井田城、鉢形城、岩槻城など次々に落城・開城していき、現在の埼玉県行田市にあった忍城にも大軍が差し向けられたのです。

豊臣軍の総大将は若き日の石田三成。2万以上の大軍で城を囲みます。城主の成田氏長は小田原城へ出陣していたため、城を守るのは城代である叔父の成田泰親はじめ城兵500と民百姓が3千ばかりでした。

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明石則実