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ソ連による東欧の衛星国化に抵抗した「ハンガリー動乱」を元予備校講師が分かりやすく解説

今からおよそ70年近く前、東欧のハンガリーでソ連軍がハンガリーに侵攻。首相のナジ・イムレを連行するという事件が起きました。ハンガリー動乱とよばれるこの事件は、東欧諸国だけではなく西側諸国にも大きな衝撃として伝わりました。その後、東欧諸国はソ連の指導下で40年近くを過ごします。東欧諸国が自主性を回復し、民主化・非共産化するのは1989年の東欧革命を待たなければなりませんでした。今回は、ハンガリー動乱の背景と経緯、その後の東欧諸国について元予備校講師がわかりやすく解説します。

ハンガリー動乱の背景

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第二次世界大戦の終了間際、アメリカやイギリスを中心とする自由主義・資本主義諸国とソ連を中心とする共産主義・社会主義勢力の対立がはじまっていました。ソ連の指導者スターリンは、大戦終結までに可能な限り占領地を増やし、東欧を共産主義化していきます。スターリンの死後、ソ連の指導者となったフルシチョフはスターリン批判を行い、世界に衝撃を与えました。これをうけ、ポーランドでは民主が自由を求めてポズナニ暴動(ポーランド反ソ暴動)を起こします。

冷戦の始まり

第二次世界大戦がドイツや日本などの枢軸国の敗北という形で終結が予想されるようになると、連合国内部で主導権争いが加速しました。ソ連に妥協的だったアメリカ大統領フランクリン・ローズヴェルトが死去し、トルーマン副大統領が大統領に昇格すると、アメリカとソ連の対立が激しくなります。

大戦終結後、アメリカとソ連の対立はますます激化。実際に戦火を交えないものの、アメリカとソ連が鋭く対立する冷戦の時代になります。アメリカはNATO(北大西洋条約機構)の結成やマーシャルプランの実行でソ連や社会主義勢力の封じ込めをはかりました。アメリカを中心とする国々を西側諸国といいますよ。

それに対し、ソ連のスターリン東欧諸国を衛星国化。ソ連は東欧諸国と経済協力体制としてコメコン(経済援助相互会議)や軍事同盟であるワルシャワ条約機構を結成します。ソ連を中心とする国々を東側諸国といいました。

スターリン体制と東欧諸国の衛星国化

ソ連の指導者スターリンは社会主義勢力の拡大をはかりました。ソ連とアメリカ・イギリスはドイツ問題やポーランド問題で激しく対立します。独裁的権力を握っていたスターリンはアメリカやソ連と妥協することなく、対決姿勢を強めました。

スターリンは東欧諸国に対しても統制を強めます。1948年2月、東西両陣営のどちらにも属していなかったチェコスロヴァキアでクーデタが発生。共産党政権が成立しました。

連合国が分割占領していたドイツにつても、アメリカ・イギリスとソ連は対立。アメリカ・イギリスが西側占領地域を西ドイツとして独立させると、スターリンはソ連占領地域を東ドイツとして独立させます。東欧諸国はソ連・スターリンの指示に従う衛星国となっていきました。

スターリンの死とフルシチョフによるスターリン批判

1953年、ソ連の絶対的な指導者であるスターリンが死去しました。ソ連共産党はスターリンの独裁から集団指導体制へと移行します。マレンコフ首相、ベリヤ内相、フルシチョフ共産党書記、ブルガーニン国防相、モロトフ外相が政権の中枢を占めました。

指導部内ではスターリン主義を奉じるモロトフ外相らと現実主義路線にかじを切るべきだとするフルシチョフ共産党書記が対立。ベリヤ内相やマレンコフ首相失脚後の政局でブルガーニン国防相と手を組んだフルシチョフが政治の主導権を握ります。

1956年、フルシチョフはソ連共産党第20回大会でスターリンの非人間的な独裁政治や個人崇拝、度を越した西側との対決姿勢などを批判する「スターリン批判」の演説をおこないました。これまで絶対的な存在だったスターリンへの批判は価値観の転換を予感させ、東欧諸国に大きな影響を与えます。

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