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ソ連の歴史の転換点「スターリン批判」をわかりやすく解説!

1920年代から1950年代までソ連を支配していたスターリン。しかし、彼が亡くなるとソ連は大きく違う方面に舵を切ることになります。 今回はそんなスターリン時代を終焉に導いたスターリン批判について解説していきたいと思います。

スターリン時代のソ連

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ソ連の建国はロシア帝国を倒した1917年のロシア革命が起源。ロシア革命ではレーニンの指導による実現されましたが、ロシア革命にはマルクス主義の思想が深く影響しています。マルクス主義はいってしまえば社会主義の考え方で、みんなが平等に暮らせるようにする考え方です。しかし、1924年にレーニンが亡くなるとソビエトロシア共産党の一党独裁制を築き上げたスターリンが政治指導者となりました。

スターリンは自分の権力の安定のためにトロツキーらのスターリンに対立する人物を次々と失脚させていき事実上の独裁権を掌握。スターリンの考えがすべての社会主義国家の建設をすすめていくことになるのです。スターリンは自らの社会主義国家建国に向けての行動を正当化して、スターリン主義を発展させ、スターリン主義やスターリンに反抗的な人を強制収容所や銃殺していく大粛清を実行していくように。

そのすさまじさは1934年の党大会での約2000人の代議員のうち約1100を逮捕して大半を死刑に追い込み、さらには粛清の対象は反対派だけでなく、少数民族や知識人や官僚にまで及んでいます。

例えば赤いナポレオンと恐れられていたトゥハチェフスキー元帥を1936年に銃殺していき、そもそも軍隊さえも赤軍大粛清と称して次々と殺害していきました。

スターリンの死

こうして恐れられてきたスターリンでしたが1953年3月5日にスターリンが亡くなりました。

スターリン亡き後のソ連共産党はこれまでのスターリン一極集中体制から集団指導体制に移行。日本でいうところの首相に当たる閣僚会議議長にゲオルギー・マレンコフ、副首相にアナスタス・ミコヤン、第一副首相にラヴレンチー・ベリヤ、党中央委員会筆頭書記にニキータ・フルシチョフといった体制となりました。

新しい政治体制となったソ連ではまずベリヤが脱スターリン化を推し進め、スターリンが命じた粛清の取り消しや法治主義の強調などを行います。ベリヤは、外交面ではドイツ民主共和国やハンガリー人民共和国に対して、従来の社会主義化を修正するように働きかけて一回はソ連の支配を緩めようとしていました。

しかし、この東側諸国にて暴動が起こるとソ連が揺らぐことを警戒したフルシチョフらは、ベリヤを国家反逆罪で逮捕し失脚に追い込みます。

ソ連共産党第20回大会

ベリヤが失脚してフルシチョフが権力を握るようになりましたが、そんなフルシチョフが権力の座に就いた直後の1956年2月14日から開催されたソ連共産党第20回大会は、スターリンが死去して最初の大会ということもあり、個人独裁体制から集団指導体制への転換をはじめとしたスターリンからの決別や非スターリン化を推し進める決起となっていく大会となっていきました。

こうしてソ連の歴史を大きく変える党大会が幕を開けることになりましたが、大会初日に行われた党第一書記のフルシチョフによる中央委員会報告では、これまでのアメリカとの対決姿勢を改めて平和的に共存する外交政策を押し出します。このことはレーニンやスターリンが推し進めていった暴力革命だけではなく、議会総選挙を通じて議会制民主主義による平和革命などいろいろな社会主義の推進について言及していき、これまでの政策を大きく変える一つのきっかけとなっていきました。

また、党大会では公開されることはなかったフルシチョフの秘密報告ではスターリンの名前を直々に挙げて、スターリンの個人主義や独裁政治によって大量の人々が粛清されていき、第二次世界大戦や外交政策の多大な悪影響をもたらしたことが言及されました。特に大粛清の契機となったセルゲイ・キーロフの暗殺に至る陰謀についても詳しく言及され、

フルシチョフの秘密報告には

・スターリンは農村部の現状をほとんど理解しておらず、コルホーズなどで大量の餓死者を出してしまった
・スターリンの専横ぶりで第二次世界大戦後のソ連と社会主義兄弟国との関係にも悪影響を及ぼした。
・スターリンは個人崇拝をわがままに利用して、レーニンの集団指導を無視した政治体制をとっていった。
・スターリンの反対する人たちを人民の敵として大量粛清を行った。

とスターリンの政治をかなり酷評しています。

こうして行われていったスターリン批判によってかつてソ連の至る所にあったスターリン像はなぎ倒されていき、スターリンの功績などは全て消されていくことになるのでした。

スターリン批判の影響

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スターリン批判をやったことで東側諸国に影響を与えていくことになります。次はそんなスターリン批判を行ったことで広まっていった影響について見ていきましょう。

ソ連の体制の変化

スターリン批判を行ったことで、スターリンと敵対していた人やスターリンの時代に銃殺された人や収容所に送られた人たちの名誉回復が行われます。これまで人々を逮捕してきた秘密警察の活動もトップであるベリヤが失脚し、スターリンの時代から大幅に縮小・緩和がされ、政治・経済・文化・社会にさまざまな非スターリン化が推し進められていくことになります。

しかし、秘密警察はソ連が崩壊するまでなんだかんだで存続することになり、恐怖による支配は続行されていきました。また、これまでソ連の中で抑圧されてきた民族たちも次々と名誉回復が行われていき、故郷での自治領が再建されていったのです。

その後スターリン派と非スターリン派での争いが激化していくようになり、1957年にフルシチョフの失脚を図る反党グループ事件を起こしていきますが、これは失敗していき、逆に彼らが失脚することとなっていくように。これによりフルシチョフの権力基盤は安定。1964年にブレジネフらによって失脚するまでフルシチョフ体制が続くこととなりました。

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