その他の国の歴史

世界三大美女に「クレオパトラ」「楊貴妃」「小野小町」を挙げるのは日本人だけ?

権力者が美しい女性に心奪われ道を踏み外す……。歴史を振り返ると、時に美女が政局を大きく動かすこともありました。特に「世界三大美女」と称される女性たちは、美しい女性の代名詞として知られています。日本で三大美女と言ったら「クレオパトラ」「楊貴妃」「小野小町」を思い浮かべる人も多いと思いますが、海外ではどうなのでしょう。今回は歴史に名を遺す「世界三大美女」にスポットを当ててみたいと思います。

まずは基本形!歴史を動かした「世界三大美女」とは

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まずは基本情報から。「クレオパトラ」「楊貴妃」「小野小町」がどんな女性だったのか、詳しく見ておきたいと思います。本当に美人だったのか?どんな事件に巻き込まれたのか。顔写真や映像のない時代の人ですので、残されたエピソードなどから想像するよりほかにありません。美女たちの生涯とはどんなものだったのか、解説してまいります。

美女の代名詞・古代エジプトの女王「クレオパトラ」

クレオパトラとは、古代エジプト・プトレマイオス王朝の女王につけられる名前。一般的に「絶世の美女」と呼ばれている、小説や映画の題材として扱われる女王は「クレオパトラ7世(以後クレオパトラ)」です。彼女のお母さんはクレオパトラ5世。姉妹にもクレオパトラ6世がいます。

大変な美貌の持ち主で、多国語を操るバイリンガルだったとも。異国の軍隊が攻めてきても怯えることなく「魅了して味方につけよう」そんな発想を抱くことができたツワモノだったのかもしれません。その様子は、大胆な男性遍歴の中に見て取ることができます。

父は古代エジプトプトレマイオス朝のファラオ・プトレマイオス12世です。紀元前80年~50年頃に王位についていました。当時のエジプトは後継者争いや、ローマの勢力拡大の影響などで、民衆の不安が増大していたといいます。プトレマイオス12世は良い政治をすることができず、民衆の不安はますます募るばかりでした。

父が早くに亡くなったことで、クレオパトラは弟であるプトレマイオス13世と婚姻関係を結びエジプトの女王に即位しますが、共同統治はあまりうまくいかず、争いが絶えませんでした。

そんな不安定な時代に、ローマと手を結ぶことがエジプトのためになると考えたクレオパトラは、ローマの軍人ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)に接近。エジプトへの進出を模索していたローマにとっては渡りに船といったところだったのかもしれませんが、カエサルとクレオパトラは非常に親密な関係になっていったようです。

しかしカエサルは味方に裏切られ、命を落としてしまいます。次にクレオパトラはローマの別の軍人、アントニウスに急接近。しかし最終的にアントニウスは勢力争いに敗北。エジプトのためを思って有力者たちに次々近づいたクレオパトラでしたが、結局、ローマのエジプト侵攻の隙を与えてしまうことに。ローマは地中海を制圧し、プトレマイオス朝も終焉。クレオパトラは最期を悟り、毒蛇に胸をかませて死を選んだのだそうです。

美しすぎて国が傾いた?中国唐王朝の皇妃「楊貴妃」

楊貴妃(ようきひ)とは、中国唐王朝の玄宗(げんそう)皇帝の皇妃。中国の四大美人(西施、王昭君、貂蝉、楊貴妃)のひとりともいわれている絶世の美女です。

時代は8世紀半ば。唐王朝は中国大陸の広大な大地を統治する統一王朝として、当時絶大な力を持っていました。

玄宗は唐の第9代皇帝。即位直後はよい政治を行い、唐王朝の絶頂期を築いたといわれています。

楊貴妃は一般的な中流家庭の出ですが、幼いころから琵琶や笛、踊りにも長けており、しっかりとした教育を受けた少女だったようです。

美と知性を持ち合わせていた楊貴妃は、はじめ、玄宗の息子である李瑁と結婚します。玄宗には60人くらい子供がいたといわれており、楊貴妃の夫は第18子。あまり情報がありません。しかも、楊貴妃を一目見た玄宗が一目ぼれし「自分の妃にしたい」と言い出します。楊貴妃の夫は、自分の父親に自分の妃を取られ、一時は都を追われてしまうのです。

時の権力者にそこまで惚れられたら悪い気はしないでしょう。玄宗五十五歳、楊貴妃二十一歳。楊貴妃はその美貌を武器に、皇帝の寵愛を受けることになるのです。玄宗にはほかにも妃がいましたが、特に楊貴妃を大事にしていたといわれています。楊貴妃が要求したわけではなさそうですが、彼女に豪華な服や装飾品を大量に送り、豪華なパーティーを開いたり。政治などそっちのけで湯水のようにお金を使って楊貴妃の気を引こうとします。

また、楊貴妃が茘枝(ライチ)を好んで食べていたというのは有名な話。遠く南部の地域から何千キロも、早馬で運ばせていたとの逸話も残っています。距離と時間を買う。服や宝石よりも、ある意味究極の贅沢をしていたと言えそうです。

玄宗のあまりの入れ込みように、これを利用しようとする役人や官僚が続出。にわかにざわつき始めた宮廷の外では、楊貴妃の親戚筋と対立関係にあった人物が反乱を起こし「安史の乱」へと発展してしまいます。

混乱のもとを作ったのは楊貴妃(の親戚筋)。玄宗はこのことを重く見た重臣たちから、楊貴妃を処断するよう詰め寄られてしまいます。親戚筋の連中があることないこと言っただけで楊貴妃は関係ない……と必死に(楊貴妃の)命乞いをする皇帝でしたが重臣たちの耳には届かず、結局、楊貴妃は皇帝の重臣たちに首を絞められ処断されてしまうのです。

ミステリアス!平安時代の女流歌人「小野小町」

クレオパトラ、楊貴妃に比べると、基本的な記録情報が少なく詳細がわからないのが小野小町です。平安時代、だいたい9世紀ごろに活躍した女流歌人ということはわかっていますが、出生については不明な点が多く、どういう女性であったかよくわかっていません。

生誕地も、秋田県であるという説もあれば、滋賀県であるという説もあり、全国各地で「小野」の名の付く町名のあると「小野小町生誕の地」と呼ばれることが多く、これまたはっきりしていません。小野小町の墓所についても全国各地に存在しており、ますます謎を深めることとなっています。

歌人として歌を多く残しており、六歌仙などにも選出されているため、何らかの形で宮中に仕えていたものと思われますが、誰にどのような役割で仕えていたかについてもはっきりとはしていないようです。

誰もが知っている有名な女性なのに何者だかわからない……実にミステリアス。

当時の日本の上流階級では、歌を詠むということは非常に重要な「たしなみ」でした。女性でも男性でも、よい歌を詠むことができると、それはそれは、もてたと考えられています。

出生も生家も血筋も職場も不明なのに、これだけ名前が知られているということは、よほど優秀でセンスのよい歌人だったと推測可能。おそらくモテモテだったでしょう。

【小野小町の代表的な歌】
花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに(古今集113)

別解!そのほかの「世界三大美女」とは?

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こうしてみると「世界三大美女」とは、美貌というより知的で時代の最先端を行っていた女性、ということなのかもしれません。クレオパトラは多国語を操る才女だったとの説もありますし、楊貴妃は歌や楽器の演奏で男性陣を翻弄。小野小町は恋の歌を詠ませたらピカイチだった……。しかし、それにしても、クレオパトラ、楊貴妃と小野小町が肩を並べるというのも不思議な感じがします。実のところ「世界三大〇〇」は日本人が好む分類の仕方であり、世界三大美女も日本独自のものであるとか。では、世界に目を向けると、三人目にはどんな美女がエントリーされる可能性があるのでしょうか。

小野小町ではなく古代スパルタ王妃のヘレネーを

一般的に「歴史上最強の美女を三人挙げて」と言われたら、クレオパトラ、楊貴妃と、ヘレネーという女性の名前が挙がることが多いようです。

ヘレネーとは、古代スパルタの王妃。ギリシア神話に登場し、ゼウスの娘とされることもあります。

ヘレネーはスパルタ王と王妃の間に生まれ、やがて美しい娘に成長。「人間の中で一番美しい女性」とうたわれたヘレネー。あまりの美しさに、ヘレネーと結婚したいと望む男性がギリシャ中から集まりました。

これだけ大勢集まってしまうと、誰か一人を選ぶのも一苦労。選ばれた人が襲われたり、もめごとに発展する可能性も。集まった求婚者たちは、「誰か一人が選ばれたら、その人が困ったら残りの全員でその男を守ること」、と約束させられます。誰が選ばれても恨みっこなし。集まった求婚者の中から選ばれた人物とヘレネーは結婚します。

一方、神々の世界でもいろいろあって、美の女神アフロディーテがパリスという青年に「人間の中で一番美しい女性」を与えることを約束していました。パリスはイーリオスの王子。アフロディーテの手助けでパリスはヘレネーに接近し、二人は恋に落ちてしまいます。

ここで先の約束が。ヘレネーの結婚相手が窮地に陥った場合、全員で彼を助けること。約束を果たすべく、元求婚者たちが再び集結。イーリオスに攻め込みます。あの「トロイの木馬」で知られるトロイア戦争へと発展してしまうのです。

あまりにも美しすぎて戦争を引き起こしてしまったヘレネー。あまりにも突飛な話ですが「世界三大美女」」と呼ぶにふさわしい女性かもしれません。

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