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世界を変えた「マゼラン」初めての世界一周を詳しく解説

16世紀の初頭に、歴史上初めて海上航路で世界一周を実現した、大航海時代の英雄マゼランを知っている方は以外に少ないようです。ルネサンスの影響でいろいろな改革が生まれたヨーロッパで、羅針盤が航海に用いられるようになりました。その結果生まれた大航海時代は、それまでの陸上を移動する限られた世界を大きく変えたと言えます。その中でも、ポルトガルを出発して南米の南端のマゼラン海峡を経由して太平洋に出て、世界一周を実現したマゼランの活躍は世界に希望をもたらせ、世界を変えたのです。この、マゼランの初めての世界一周について解説します。

大航海時代とマゼランの偉業

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かつて、ヨーロッパでは、ルネサンス期後半になって、大航海時代と呼ばれる時代がありました。その時代には、バスコ・ダ・ガマ、コロンブスなどとともに新時代を切り開いたのが、ポルトガル人のマゼランだったのです。それまで、誰も成し遂げたことのなかった海上航路によって世界一周を実現しました。マゼラン自身は途中フィリピンで地元民と戦って死去してしまいますが、部下たちが力を合わせてヨーロッパのポルトガルまでたどり着き、世界一周を実現したのです。

それまでの古いカトリック派のキリスト協会の固定観念に支配された中世では、世界は平べったい世界とされ、コペルニクスの地動説も否定されていました。しかし、ルネサンスの自由な発想の影響によって、地球は丸いということを証明しようとコロンブスやマゼランなどが立ち上がったのです。このマゼランやコロンブスの偉業によって、ヨーロッパ人は古い観念から抜け出し、新しい時代に踏み出すことが可能になりました。

すべてはルネサンスから始まった

ヨーロッパは、15世紀にルネサンスが起こり、それまでの閉鎖的なカトリック教会の固定観念に支配された社会から、自由にものを考えられる社会に転換しつつありました。そのルネサンス期に、磁石の性質を利用した羅針盤が発明され、さらに印刷技術の発展によって広くその知識が広められるようになったのです。

羅針盤を利用することによって、遠洋航海が可能になりました。それまでの船の航海は夜空の星によって方向を確認していたために、荒天のときにはどこにいるのかわからなくなるため、航海は陸が見える範囲が限界だったのです。

そのような状況の中で、ユーラシア大陸の東端にある大国中国や南アジアのインドとの東西貿易路はイスラムの大国、オスマン帝国に押さえられていました。そのため、ヨーロッパでは、中国などの絹製品、お茶、インドの香辛料などが入りにくくなっていたのです。

羅針盤の登場によって長距離航海が可能になった

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ルネサンスによって羅針盤が発明され、その知識が広められたことによって、航海に利用できることがわかってきたのです。すなわち、羅針盤によって天候に関わらず、東西南北の方向がいつでもわかるようになったことで、長距離航海が可能になりました。沿岸沿いにしか船の航海ができない時代は終わったのです。

そのため、それまで地球は平らという固定観念に挑戦しようという冒険者たちが現れました。

最初の快挙はバスコ・ダ・ガマの喜望峰の発見

シルクロードをイスラム帝国によって支配されて、自由な貿易ができないことが当時ヨーロッパでは一番の問題となっていたのです。その問題を解決しようと海のシルクロードを開拓しようとしたのが、バスコ・ダ・ガマでした。彼は、船でアフリカ大陸を南下していき、ついにアフリカ大陸の南端にある喜望峰を発見し、インド洋に出たのです。

それによって、ヨーロッパの国々は、中央アジアを経由する従来のシルクロードに代わって、船でアジアの国々との交易が可能になりました。さらに、軍船を派遣してインド、東南アジア諸国を植民地化していくようになったのです。

大航海時代の英雄たちの足跡とマゼランの登場

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羅針盤の登場による大航海時代は、海のシルクロードの発見だけではありません。さらに、地球が丸い球体であることを証明しようとする人たちが現れたのです。それが、キリスト教でも古い体質のカトリック派に属するスペインやポルトガルから現れたのは皮肉でした。まあ、ルネサンスそのものがカトリック派の強いイタリアから始まったのですから、当然と言えば当然ですね。

バスコ・ダ・ガマの喜望峰発見によってアジアとの距離が縮まった

最初にアジア航路への大航海時代を切り開いたのは、バスコ・ダ・ガマでした。ポルトガル人で、航海者であり、探検家でもあった彼は、1497年にアフリカ大陸沿いに南下して、ついにアフリカ大陸の最南端にあたる喜望峰を発見したのです。当時は無名の岬で、そこを回ってインドまで到達しました。これによって、オスマン帝国に抑えられていたシルクロードを経由しなくてもアジアとの東西交易が可能になったのです。とくにアジアの香辛料貿易が可能になったことで、ポルトガル王ジョアン2世が「希望の岬」と名付けたと言われています。

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