アルマダ海戦の背景
16世紀後半、スペインは最も華やかな時代を迎えていました。国王フェリペ2世の下、「太陽の沈まぬ帝国」を実現、オスマン帝国に対してはレパント海戦で勝利します。そのスペインにとってもっとも目障りな存在となっていたのはエリザベス1世が治めるイングランド。エリザベス1世はスペインが推すカトリック信者のメアリ・ステュアートの処刑やスペインの銀船隊に対する海賊行為、オランダ独立戦争の支援など反スペイン活動を強めます。
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スペイン王フェリペ2世とイングランド女王メアリ1世の結婚
1553年、イングランド国王エドワード6世が若くしてこの世を去りました。エドワード6世には後継者となる子供がいなかったので、エドワード6世の姉であるメアリ1世がイギリスで初めての女王となります。
メアリ1世はカトリックの信者でした。そのため、ヘンリ8世がはじめたイギリス国教会からカトリックに復帰します。メアリ1世が結婚相手に選んだのはカトリック国であるスペインのフェリペ2世でした。
カトリックの敬虔な信者であったメアリ1世は国教会の聖職者300人あまりを処刑。強引なカトリック復帰を図ります。すでに、修道院の解散などで利益を得ていた地主などの有力者はメアリを恐れ、憎みました。多くの市民はメアリ1世を「血のメアリ」と読んで嫌ったといいます。
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メアリ・ステュアートの処刑
メアリ1世の死後、異母妹のエリザベス1世がイングランドの王位に就きました。同じころ、イングランドの北にあるスコットランドの女王だったのがメアリ・ステュアートでした。メアリはカトリックの信者で、フランス王アンリ2世と結婚します。
1561年、メアリ・ステュアートはフランスからスコットランドに戻りました。しかし、スコットランドのプロテスタント(長老派、プレスビテリアン)と対立。1568年にイングランドに亡命します。
スペインは、カトリック信者であるメアリ・ステュアートのイングランド王即位を画策しました。実は、メアリ・ステュアートはイングランドの王位継承権者でもあったからです。エリザベス1世にとって危険な存在となったメアリ・ステュアートは19年幽閉され、1587年に処刑されます。
繰り返されるスペイン船への海賊行為
フェリペ2世がスペイン王だった16世紀、スペインは世界各地に植民地を拡大して「太陽の没しない帝国」といわれました。中でも、スペインにとって重要な植民地は南米です。南米ボリビアのポトシ銀山から産出される銀は、スペイン財政にとって必要不可欠なものとなります。
南米からヨーロッパに銀を運ぶスペインの船隊を「銀船隊」とよびました。宝船ともいえる銀船隊を、諸外国が放っておくわけはありません。
この時代、諸国の王は私掠許可証を発行し、外国船に対する海賊行為を公認していました。発展目覚しいオランダやイングランドの人々は私掠許可証の発行を受け、公然と銀船隊を狙います。スペイン政府は海賊の取締りをエリザベス1世に要請しましたが、エリザベスは応じませんでした。
エリザベス1世が行ったオランダ独立戦争への支援
16世紀後半、フェリペ2世は、父であるカール5世からスペイン=ハプスブルク家の領土としてネーデルラントを相続しました。ネーデルラントは現在のオランダやベルギーなどにあたる地域ですね。
もともと、ネーデルラントの北部はゴイセンとよばれるカルヴァン派の新教徒が多く、カトリックであるスペインの支配を快く思っていませんでした。フェリペ2世はネーデルラントの市民たちにカトリック信仰を強要。ついに、ネーデルラントの人々はスペインに対し独立を要求します。
ネーデルラント南部(ベルギー)は、カトリック信者が多かったため独立戦争から離脱しました。しかし、北部の人々はスペインに対し激しく抵抗します。同じプロテスタントの国として、エリザベス1世はオランダ独立戦争を支援しました。
スペインとすれば、メアリ・ステュアートの処刑やイングランドの私掠船問題、オランダ独立戦争での独立派支援などエリザベス1世の反スペイン政策を放置できなくなります。
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