レーニン時代のソビエト連邦
第一次世界大戦に連合国として参加したロシアは苦しい状況にありました。イギリスやフランス、アメリカに比べて経済力に乏しいロシアは総力戦となった第一次世界大戦に耐えられず、国民生活は破綻の危機。なおも戦争を止めない皇帝政府に反旗を翻し、ロシア帝国を滅ぼしたのがレーニン率いるボリシェヴィキでした。権力を握ったレーニンの政策を見てみましょう。
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干渉戦争と戦時共産主義
建国直後のソビエト連邦の基盤はとても弱いものでした。ロシア帝国復活をもくろむ帝政派や社会主義経済に反対するリベラル派などボリシェヴィキのソビエト政権に反発する人々がロシア各地で反革命政権を打ち立てます。
一方、第一次世界大戦を共に戦っていたイギリス・フランス・アメリカ・日本などの連合国はロシアの状況に危機感を深めました。社会主義革命が自国に及ぶことを防ぐため、ロシアに軍を派遣し革命の妨害を図ります。
ソビエト政権がドイツと単独で講和すると連合国はシベリア出兵などを実行。窮地に陥ったソビエト連邦は「すべてを戦線へ」の合言葉のものと、農民から強制的に穀物を没収します。食料の配給制や工場の国営化を実行し革命政権を生き延びさせようとはかりました。こうした戦時共産主義の政策は農民や労働者の意欲を著しく削ぎ、生産力の低下を招きます。
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新経済政策(ネップ:NEP)の実施
対ソ干渉戦争が一段落つき、各地の反革命政権もトロツキー率いる赤軍によって制圧しつつあったころ、レーニンは経済政策の転換を図ります。戦時共産主義の実施により生産力が低下したことに加え、各地で農民反乱が続発したからです。
1921年に食料の強制徴発を停止。翌1922年に新経済政策(ネップ:NEP)を発表します。農民は余剰生産物の没収に代わり10%の現物税を納めること。現物税を支払った後の残りの農産物は自由に販売してよいこと。小さな企業であれば国営ではなく個人で営業してもよいことなどが定められました。
これらの政策によりロシア経済は息を吹き返します。新経済政策によって生産力は第一次世界大戦前の水準に回復。クラークとよばれる富農やネップマンとよばれる小資本家が生まれました。この政策はスターリンが権力を握るまで継続します。
レーニン死後の権力闘争
1922年、レーニンの健康状態が悪化するとスターリンとトロツキーによる権力闘争が激化します。トロツキーは十月革命の武装蜂起を軍事革命委員として指揮し、反革命政権や対ソ干渉戦争に対抗する赤軍を創設するなど革命の功労者でした。スターリンはソビエト政権の閣僚の一人となって政治的影響力を強化。1922年にロシア共産党の書記長となっていました。
レーニンはスターリンを「粗暴。別人の任命を提案する」と評する一方、トロツキーは「有能であるが自己過信する」と批評したといいます。トロツキーとスターリンは革命政権の方向性についても対立。世界同時革命を主張するトロツキーと一国社会主義を掲げるスターリンが激しく対立したのです。
共産党内の権力闘争は1924年のレーニンの死によっても止まりませんでした。その後の1929年、スターリンはついにトロツキーの国外追放に成功し独裁体制を築きます。追放されたトロツキーは1940年にメキシコで暗殺されました。
スターリン体制のソ連
1929年にトロツキーを追放して成立した独裁政権をスターリン体制と呼びます。スターリンは1929年から1953年までの24年間にわたり独裁を維持しました。スターリンは計画経済でロシアを工業化させる一方、反対派は徹底的に弾圧・粛清します。粛清の犠牲者は800万人とも1000万人ともいわれました。スターリン体制の24年間を振り返りましょう。
2つの五か年計画
スターリンがトロツキーを追放して独裁権を確立する前年の1928年、第一次五カ年計画が始まりました。スターリンは新経済政策を否定。鉄鉱・機械・石炭など重工業の重視と農業の集団化を柱とする第一次五カ年計画を開始します。スターリンはロシアを農業国から工業国へと一気に転換しようとはかりました。
計画経済による重工業化は一定の成果を収め、軍事力も強化されました。農業の集団化は反対を許さず、強制的に実行されます。こうして集団化した農村はコルホーズと呼ばれました。農民はわずかな菜園と家畜の私有が認められるのみ。国が所有するトラクターで公有地を耕し、生産物はコルホーズが管理し国家に上納しました。
第一次五カ年計画では重工業に偏った発展だったため、軽工業や農業生産とのアンバランスが発生。第一次五カ年計画の問題点を踏まえ、軽工業の育成も図ったのが第二次五カ年計画です。ただ、この計画はドイツの脅威が増したこともあり、結局、重工業重視の政策に戻されました。
反対派の粛清とスターリン憲法の制定
1930年代、ソビエト連邦ではスターリンに反対する人々が容赦なく粛清されていきました。のちにフルシチョフが明らかにしたところによると、スターリン体制下の第十七回党大会で選ばれた党中央委員と候補者の実に70%がスターリンによる粛清の対象となりました。この粛清は特に大粛清とも呼ばれます。
レーニンとともに党を指導した人物や赤軍の3人の元帥、57名の軍司令官も粛清されました。スターリンに反対する者はいなくなりましたが、党や赤軍が弱体化したことは否めません。
1936年、スターリン体制を確立させるスターリン憲法が制定されます。憲法の中でソビエト共産党はあらゆる組織の指導的核であると定義されました。共産党トップは書記長のスターリンです。大粛清で反対派を葬り、スターリン憲法で独裁権を確立したスターリンに逆らうことができる人物は誰一人としていませんでした。