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ソ連による東欧の衛星国化に抵抗した「ハンガリー動乱」を元予備校講師が分かりやすく解説

ポーランドで起きたポズナニ暴動

第二次世界大戦後、ポーランドでもソ連の指導の下、共産党が政権を担っていました。スターリンはポーランドにソ連式の農業の集団化と重工業化を押し付けます。ポーランドはソ連への従属を深めました。

1953年、スターリンが死去。1956年にフルシチョフがスターリン批判を行うとポーランドの人々はソ連に対する反発を表面化し始めました。1956年6月、ポーランド西部の工業都市であるポズナニで労働者たちの暴動が発生。市民が暴動に加わり反ソ暴動へと発展しました。

ポーランド共産党の指導者だったゴムウカはフルシチョフと協議を重ね、ソ連軍の軍事介入を阻止。イデオロギーや安全保障でソ連と対立しないことを約束して軍事弾圧を回避することに成功します。

ポーランドの事例は、東欧諸国がやり方次第でソ連の介入を阻止しつつ、自主性を獲得する可能性を示しました。

ハンガリー動乱の経緯

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第二次世界大戦でドイツと共に枢軸国の一員として戦ったハンガリーは、大戦で大きく疲弊。経済的に苦しくなっていました。首相に就任したナジ・イムレは経済の立て直しや複数政党制の導入、ワルシャワ条約機構からの脱退などをおこないます。ナジ・イムレの動きは、ソ連にとって到底容認できるものでなかったため、ソ連軍はハンガリーに軍事侵攻。ナジ・イムレは連れ去られ、ソ連によって処刑されます。

 

第二次世界大戦で疲弊していたハンガリー

第二次世界大戦中、ハンガリー経済はドイツに大きく依存していました。大戦でドイツともにハンガリーも敗戦国となると、ハンガリーの通貨が大暴落。ハイパーインフレが発生して人々を苦しめました。

1947年、イタリア、ルーマニア、フィンランド、ブルガリアとともにハンガリーは連合国とパリ条約を結びました。パリ条約は第二次世界大戦の講和条約。国境線は原則1939年以前に戻され、ハンガリーはソ連・チェコスロヴァキア・ユーゴスラヴィアに3億ドルもの賠償金支払いを課せられます。

加えて、ハンガリーはソ連軍の駐留費用も負担することになりました。さらに、農業や工業の集団化はハンガリー人の反発を買います。スターリン批判を知ったハンガリーの人々はソ連のくびきから逃れるため、行動を始めました

ナジ・イムレの首相就任

ナジ・イムレはハンガリー西部のカポシュヴァールの日雇い農家の子として生まれました。第一次世界大戦に兵士として従軍。東部戦線でロシアの捕虜となり、その後におきたロシア革命を目の当たりにします。

1953年、スターリンが死去するとハンガリーではマーチャシュが首相を辞任。後任としてナジ・イムレが首相となりました。ナジは困窮する市民を救うため、資本主義的な経済の一部復活を認めます。しかし、これに反発するスターリン主義者たちはナジを批判。ナジは首相を辞任しました。

1956年、スターリン批判が行われるとハンガリーではナジの首相復帰を求める声が高まります。ポーランド暴動の成り行きを知っていた人々は、ハンガリーの首都ブダペストで暴動を展開。スターリン主義者の首相を退陣させ、ナジを首相とする政権交代をはかりました。

ハンガリー動乱の発生

ハンガリー全土で巻き起こった暴動に対し、ハンガリー政府はソ連軍に出動を要請しました。しかし、ソ連軍の出動前に暴動は全国各地に暴動が拡大。労働者たちはゼネラルストライキ(ゼネスト)を展開しました。

スターリン主義者の首相は事態収拾を断念し辞職。かわって、ナジ・イムレが首相となりました。

首相に就任したナジは、共産党の一党独裁を改め複数政党制を導入します。また、東側諸国の軍事同盟であるワルシャワ条約機構からの脱退を宣言。ハンガリーの中立を表明しました。

暴動発生時には動かなかったソ連軍は、フルシチョフの命令によりハンガリーの首都ブダペストに向けて進軍を開始します。ハンガリー内部の問題だけではなく、ワルシャワ条約機構脱退をナジが行ったことは、ソ連の逆鱗に触れる行為だったからでしょう。

ソ連軍の介入とナジ・イムレの処刑

ソ連共産党指導部(フルシチョフやブルガーニン)は、ハンガリー動乱を「反革命」行為と断定。ソ連軍をブダペストに進撃させます。ソ連軍は2000両の戦車を主力とする機甲師団を差し向けました。

小国であるハンガリーにソ連を防ぐだけの力はありません。ソ連軍はブダペストを占領。ナジ・イムレに改革の撤回を要求しました。しかし、ナジは改革の撤回を拒否したため、ソ連はナジを政権から引きずり降ろします。

身の危険を感じたナジはユーゴスラヴィア大使館に亡命しました。ブダペストを占領するソ連軍はナジの身の安全を保障しますが、ナジが大使館を出たところで拘束。

ルーマニアに身柄を移したうえで、秘密裁判にかけて処刑してしまいました。ソ連としては、ハンガリーの離脱によって東欧諸国が離反するのを防ぎたかったのでしょうね。

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