動乱後の東欧諸国
ハンガリー動乱後、ソ連ではキューバ危機への対応を責められフルシチョフが失脚。かわって政権を握ったブレジネフによって東欧諸国への締め付けが強化されました。チェコスロヴァキアで起きたプラハの春とそれを弾圧するチェコ事件は、ソ連による東欧締め付けの象徴となります。東欧諸国が自主性を回復するのは1989年の東欧革命以後となりました。
制限主権論を提示したブレジネフ・ドクトリン
1962年、西側諸国との平和共存を掲げたフルシチョフはアメリカとの間で起きたキューバ事件でアメリカに譲歩を迫られます。事件の対応が手ぬるいとして、フルシチョフは政権を追われてしまいました。
フルシチョフ失脚後に政権を握ったのがブレジネフです。ブレジネフは1964年から1982年までの長きにわたってソ連の指導者として国政を主導しました。ブレジネフ時代は安定していたものの、反体制的な言動は厳しく取り締まられます。
ブレジネフは東欧諸国に対し制限主権論の立場を示しました。制限主権論とは、社会主義諸国全体の利益のためには、各国の主権は制限されてもやむを得ないというものです。
ブレジネフのこの考えを、ブレジネフ・ドクトリンといいました。ソ連はブレジネフ・ドクトリンに従い、必要があれば軍事介入をおこないます。
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プラハの春とチェコ事件
ハンガリー動乱から10年以上たった1968年、チェコスロヴァキアで「プラハの春」とよばれる民主化運動が起きました。プラハの春を主導したのはドプチェク。ドプチェクは「人間の顔をした社会主義」を目指しました。
ドプチェクの動きはチェコスロヴァキア国民の支持を受けます。新政党が結成され、首都のプラハには西洋の流行であるミニスカートをはいた女性が出現しました。
チェコでおきた自由化と民主化の動きに対し、ソ連のブレジネフ政権は社会主義政権の否定につながると警戒。ワルシャワ条約機構軍15万を動かし、プラハを制圧しました。
ソ連はドプチェクやチェルニーク首相ら改革派を拘束。ウクライナに連行しました。ソ連によるチェコへの武力介入をチェコ事件といいます。
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東欧革命
1985年、ソ連ではゴルバチョフが政権を握りました。ゴルバチョフは硬直した経済の立て直しを目指してペレストロイカとよばれる改革を実行します。同時に、ゴルバチョフは東欧諸国に対するブレジネフ・ドクトリン(制限主権論)を放棄。各国の自主性を尊重する「新思考外交」を展開します。
ゴルバチョフが新思考外交を宣言した翌年の1989年、東欧諸国では複数政党制の導入など共産党の一党独裁が崩壊しました。その先陣を切ったのは、かつてハンガリー動乱で自由を求めたハンガリーでした。ハンガリーはいち早く複数政党制を導入します。
1989年11月、東西ベルリンを隔てていた冷戦の象徴「ベルリンの壁」が崩壊。東欧における社会主義政権の瓦解を印象付けました。この東欧諸国における一連の動きを東欧革命といいます。
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