三国時代・三国志中国の歴史

三国志で劉備玄徳を生き返らせた諸葛孔明の「天下三分の計」とは?

三国志はゲームやアニメでもお馴染みで、益州の劉表のもとで世話になっていた劉備玄徳が諸葛孔明に三顧の礼をもって迎えようとした時のことをご存知の方も多いでしょう。その際に孔明が劉備玄徳に示したのが「天下三分の計」でした。それによって、自分が目指すべき方向に目覚めた玄徳は孔明とともにそれを実現しようと決意し、遂に蜀の国を得たのです。この三国志の「天下三分の計」とその前後における物語の流れについて解説します。

三国志における「天下三分の計」の位置付け

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三国志においては、劉備玄徳が伏龍といわれた諸葛亮孔明を三顧の礼で迎えようと草庵を訪れ、そこで孔明から「天下三分の計」を示されています。それは、ちょうど物語の前半の漢末期における混乱が一段落する時期でした。

それまでの群雄割拠を曹操が後漢最後の皇帝になる献帝の後見の立場で丞相になり、天下に号令を出し始めたところであり、その後の三国鼎立になる直前になります。すなわち、三国志という物語のちょうど話の転換期にあたっていたのです。

ここでは、それまでの群雄割拠は収まり、豪傑の時代から諸葛亮孔明という真の英雄が姿を見せる時代に変わっていく時期でした。

この諸葛孔明の「天下三分の計」は、その後の物語の進む方向を指し示しており、新たな英雄孔明とともに話が進んでいくことになります。

三国志の「天下三分の計」が現れるまでの流れ

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最初に、三国志の前半の流れを見ておきましょう。

3世紀後半になると、栄華を誇った後漢王朝も陰りが出て、皇帝の権力は行き渡らず、各地の豪族たちはかってな動きをするようになりました。黄巾の乱も起こったりしましたが、朝廷は抑えることができなかったのです。小説三国志では、豪族のなかの一人であった董卓が漢の都であった洛陽にかってに入り、皇帝を傀儡化してしまいます。董卓は、都に入って権力を握ると、後漢の皇帝の名を使って朝廷で好きなように振る舞ったため、朝廷は右往左往しまったのです。しかし、董卓の後ろには三国志でも最強と言われる豪傑呂布が控えていたため、誰も文句をいえませんでした。

そのころ、涿郡涿県(現在の河北省保定市涿州市)楼桑里という田舎で母とともに暮らしていた劉備玄徳は、その地で知り合った関羽雲長、張飛益徳と義兄弟の契(ちぎり)を結び、黄巾の乱に参戦して手柄を立てていました。

そして、権力を握った董卓とその側近で養子になっていた無双の豪傑呂布を倒すべく、各地の権力者たちが立ち上がり、後漢は未曾有の群雄割拠の時代に入っていったのです。曹操をはじめ、袁術、孫堅らが董卓討伐を巡って会合を始めたところに、関羽と張飛を引き連れた劉備玄徳も参加します。漢室と同じ劉姓ではあるものの、出自がはっきりしないため、相手にされませんでしたが、曹操が取り持ち、彼らを受け入れてくれたのです。

騒乱の中で頭角を現した曹操

このときには後漢の国中が混乱の渦に巻き込まれ、この当時の後漢の人口簿では、人口は激減し、3千万人近くいた人口は1千万人を切る事態(人口崩壊)になったのです。他国に逃れた人も多かったといえます。

このように董卓軍と反董卓軍の争いは激しくなりますが、とにかく董卓の養子になっていた将軍の呂布の強さは際立っており、反董卓軍に呂布に対抗できる者はいませんでした。そのために、反董卓軍は集まって打倒董卓の策を練ります。劉備玄徳もそれに参加しようとしました。しかし、集まった武将たちは家来が関羽と張飛だけで素性もわからない玄徳を馬鹿にして相手にしません。でも、曹操だけは劉備玄徳とその義兄弟を認め、ほかの武将たちに掛け合って参加させてくれたのです。

この当時には曹操はすでに反董卓軍のなかで頭角を現しており、ほかの武将たちからも一目置かれる存在になっていました。

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