三国時代・三国志中国の歴史

あまたの英傑たちを従え蜀を建国した英雄「劉備」の生涯をわかりやすく解説

今から1800年前の中国を舞台に繰り広げられた三国志。数多くの英雄の中で、小説『三国志演義』の主人公として描かれたのが劉備です。関羽・張飛と義兄弟の交わりを結び、一介の武将から皇帝にまで上り詰めた劉備の人生はとてもドラマチックなものでした。しかも、皇帝になって栄華を極めたという最後ではなく、非業の死を遂げた二人の義弟の敵討ちをしようとして死んだのも劉備の人柄を表していると思います。今回は劉備の生涯にスポットをあてて紹介しましょう。

黄巾軍討伐のため、劉備は兵を集めて挙兵した

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劉備が歴史の表舞台に登場するきっかけとなったのが、後漢末期におきた黄巾の乱です。各地で反乱軍が勢力を拡大し、社会が大混乱に陥る中、劉備は関羽・張飛とともに義勇軍を結成し黄巾の乱鎮圧に活躍しました。劉備の生い立ちや黄巾の乱、関羽・張飛との絆についてまとめます。

劉備の生い立ちや血筋について

劉備は現在の北京近郊にあたる河北省の涿(たく)郡涿県楼桑里に生まれました。父劉弘は官吏でしたが、劉備が幼いころに亡くなり生活は苦しかったようです。劉備は前漢の景帝の子である中山靖王劉勝の子孫であると称しました。姓は劉、名は備、字は玄徳。三国志では劉備または劉玄徳と表記されます。

劉備が幼いころ、劉備の家にある桑の木を見たある人が、この家から貴人がでると予言。幼いころから、ほかの人と違う何かがあったのかもしれませんね。劉備は15歳の時に母の言いつけで儒学者盧植(ろしょく)の下で学問にはげみます。同じく盧植の下で学んだ公孫瓚(こうそんさん)らととても仲良くなりました。

劉備は若いころから外見に気を配り、見栄えのある服を好んだといいます。口数は多くなく、感情を表に出すことは少なかったとのこと。同世代の若者に比べ、大人びて落ち着いた様子に見られたのかもしれませんね。

後漢王朝を揺るがした黄巾の乱とは何か

後漢王朝の末期である桓帝や霊帝のころになると、王朝内では外戚と宦官が激しくなりました。皇后の親族である外戚も宮中で皇帝のそばに仕える宦官も私利私欲に走ったため、世の中は大いに乱れます。また、官僚たちと宦官の対立も深刻でした。そのため、中央政府は安定せず、地方では貧民化した農民たちの不満が高まりつつありました。

そうした中で登場したのが太平道です。太平道は張角が始めた宗教結社でした。張角は呪文やお札・霊水などによって病気を治すとして多くの信者を獲得します。やがて、数十万もの信徒を得た張角は後漢王朝の打倒を唱えて挙兵。これにより、黄巾の乱が始まりました。

乱の名は太平道の信者たちが太平道の神である「黄天」を象徴する黄色い頭巾を頭に巻いたことに由来します。後漢の朝廷は地方の豪族たちに反乱鎮圧への協力を要請しました。

劉備は関羽・張飛とともに義勇軍の立ち上げた

黄巾の乱が発生すると、劉備は中山の豪商から資金援助を受け、義勇軍を組織します。劉備が挙兵した時から傍らにいたのが関羽張飛でした。

関羽は人並み外れた武勇を持った人物です。彼の義侠心は多くの人を魅了し、曹操でさえ配下に加えたいと熱望したほどでした。張飛も武勇において関羽に引けを取りません。のちに、劉備と曹操が戦った長坂の戦いでは殿を務め、わずか20騎ほどで曹操軍の追撃を食い止めます。鬼気迫る張飛の姿に曹操軍がひるみ、追撃の足を止めてしまいました。

三国志演義では劉備が関羽・張飛と桃園の誓いで義兄弟の契りを結んだとありますが、桃園の誓いは正史『三国志』には記述がなく、創作だと考えられています。しかし、関羽と張飛が常に劉備の左右にいて彼を守り、劉備にとって特別な存在だったことは間違いありません。劉備は関羽や張飛の助けを得ながら、義勇軍を率いて黄巾軍と戦い戦功をあげます。

徐州で曹操・呂布と争って敗れ流浪する劉備軍団

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黄巾の乱の戦功で官職についた劉備でしたが、監察官と衝突して官職を辞めてしまいます。その後、同門だった公孫瓚のもとに身を寄せ配下となりました。劉備は公孫瓚の指示で徐州の支配者である陶謙(とうけん)を助けます。陶謙の求めに応じて徐州にとどまった劉備は、呂布・曹操と争いつつ、徐州を確保しようとしますがうまくいきません。

陶謙を助け徐州支配の後継者となる

193年、徐州刺使の陶謙の配下が曹操の父である曹嵩(そうすう)を殺害し、財産を奪うという事件が起きます。この知らせに激怒した曹操が徐州に攻め込んできました。復讐心に燃える曹操は徐州の十数城を攻め落とし、老若男女問わず人民を殺害します。

窮地に立たされた陶謙は公孫瓚に支援を要請。劉備らが陶謙支援のためやってきました。呂布に本拠地を攻撃された曹操が徐州から引き上げたころ、陶謙の病が重くなります。陶謙は劉備を引き留め、自分の後を継いで徐州の支配者となるよう頼みました。

最初は断った劉備ですが、陳登や孔融らのアドバイスもあり、徐州の支配者となることを承知します。こうして、劉備は念願の根拠地を得たかに見えましたが、劉備の徐州支配は長く続きません。

劉備、呂布に徐州を奪われ曹操とともに呂布を討つ

曹操の背後を襲い、曹操の領土を乗っ取ろうとした呂布は戦いに敗れ、徐州へと逃れてきました。劉備は呂布を受け入れますが、これが凶とでます。劉備が袁術との戦いのため出陣すると、呂布は劉備の家族を人質に取ってしまいました。

劉備は呂布と交渉し、徐州の支配権を呂布に譲ると自らは小沛へと移ります。その後、劉備を警戒した呂布が小沛に攻め寄せました。劉備は戦いに敗れ、曹操のもとへと身を寄せます。

曹操は劉備を厚遇し、呂布との戦いを援助しました。198年、曹操は劉備とともに呂布を攻撃します。そして、曹操・劉備連合軍は呂布を捕らえて処刑しました。曹操は呂布打倒後も劉備を厚遇し、劉備を後漢皇帝の献帝に引き合わせます。

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