中国の歴史

最盛期の唐を衰退させた「安史の乱」とは?詳しく解説

教科書によっては安禄山の乱とも記載されている安史の乱は、中国の唐が最盛期を迎えた玄宗皇帝の末期に起こった反乱で、覚えている方も多いでしょう。有名な漢詩の詩人白居易による「長恨歌」で謳われた世界三大美女に数えられる楊貴妃によって、その最盛期の唐は国が乱れたのです。しかし、その詳しい内容についてはあまり良く知られていません。 この中国の唐の時代を衰退に向かわせた安史の乱について解説します。

安史の乱とその当時の唐の都長安

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安史の乱は、安禄山の乱(あんろくざんのらん)とも言われ、歴史の教科書にも出てきます。西暦755年から756年にかけて中国の唐の時代(唐代)に、節度使と呼ばれた唐の辺境を守っていた武将であった安禄山とその部下である史思明らによって起こされた反乱です。唐の国そのものの存続を揺るがした大規模な反乱でした。

唐の国(唐朝)は、7世紀前半に李世民(太宗)によって隋の国を滅ぼして成立した、久しぶりの漢民族による統一王朝で、玄宗皇帝の時期に最盛期を迎えていました。玄宗皇帝が、分別のある賢帝として君臨し、都の長安はシルクロードを通じて世界のさまざまな品が軒を並べ、さまざまな異民族が交易する国際都市になっており、繁栄の頂点にあったのです。

楊貴妃の登場によって玄宗皇帝は晩節を汚した

しかし、その玄宗皇帝の晩年に、後宮に楊貴妃が貴妃として現れてから、玄宗皇帝は楊貴妃に夢中になって政治をおろそかにするようになりました。さらに、楊貴妃の一族は次々と朝廷の要職に就き、唐の政治の中枢を実質的に支配するようになってしまいます。それ以後は、朝廷の風紀は乱れ、地方に派遣されていた節度使などの力のある武将たちは朝廷に対して反感を持つようになったのです。

そして起こったのが、安史の乱でした。この玄宗皇帝と楊貴妃について白居易が謳った漢詩が有名な「長恨歌」だったのです。白居易は、杜甫、李白などと並ぶ三大漢詩人の一人ですが、長恨歌は漢詩というよりも抒情小説的な作品でした。

この長恨歌に謳われた安史の乱の背景から、実際の乱の終息までを見ていきましょう。

唐の建国と安史の乱の背景

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李世民(りせいみん)が唐を成立させた当時の中国は、北方周辺の鮮卑族出身の北魏から発展した隋が、6世紀末にそれまで数百年間百花繚乱の混乱であった中国を統一していました。しかし、隋の2代目皇帝である煬帝が大規模工事をおこない、漢民族の恨みを買います。北方周辺の防衛施設であった万里の長城や黄河と長江を結ぶ運河の建設などの大規模工事で多くの漢人を労役につかせたことから漢民族の反発が強まったのです。そして、その李世民らの反乱によって、ついに隋は滅ぼされ、新たに唐が建国されました。隋の統治方式にならい、均田制なども採用して、中央集権政治をおこないます。

その後、都を長安に置いた唐は、久しぶりの漢民族の統一王朝として繁栄を築いていったのです。その繁栄が頂点に達したのが、玄宗皇帝が皇帝になった当時でした。

しかし、統一王朝が成立した後も、北方民族の侵略は後を絶たず、辺境を守る節度使と呼ばれる将軍たちを派遣せざるを得なかったのです。その節度使たちは、まさに辺境の王と言え、軍隊を訓練し、多くの財力を蓄えるようになっていき、実力を蓄えて出世するものも出てきました。安禄山もその中の1人だったのです。

安史の乱の背景と楊貴妃

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安史の乱を引き起こした安禄山は、中央アジアのオアシス都市サマルカンドの出身で、ゾクド人と突厥の混血であったと言われています。純粋の漢民族ではありませんでした。唐王朝に仕えるようになってから頭角を現します。そして、そこで宰相であった李林甫(りりんほ)を通じて玄宗皇帝に認められ、信任を得ました。さらには、楊貴妃に取り入って出世街道を登っていきます。その結果、北方の辺境地域(范陽、河北省、北京周辺)の3つの節度使を兼ねる武将に成長していたのです。また、部下の史思明も安禄山と同郷で、早くから仕えて頭角を現して補佐役となっていました。ふたりとも野望の大きい人物だったのです。

楊貴妃の出現によって玄宗皇帝は変わる

一方、玄宗皇帝の晩年に後宮に入った楊貴妃は、玄宗皇帝に見初められ、その寵愛を独占するとともに、その寵愛を武器に、一族多数を宮廷の重職に就かせていました。とくに、楊貴妃の従兄に当たる楊国忠は、李林甫の死後に宰相に就くと実質的に宮廷の実権を握ります。しかし、楊国忠の政権は強引な政治をおこなったため、人々の反感を買ったのです。

そのため、李林甫と仲の良かった人は楊国忠と対立するようになり、その中には安禄山もいました。

楊貴妃一族による唐の朝廷支配と反感が安史の乱を引き起こした

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宰相の楊国忠を中心とする楊貴妃一族と対立するようになった安禄山は、彼らが支配する長安では身の危険が迫るようになります。そのため、安禄山は反乱を決意し、節度使としての本拠地に戻ると、10万人以上の兵力を従えて、副都洛陽や都の長安に向けて進撃を開始したのです。

節度使安禄山の反乱で副都の洛陽が落ちる_燕国の建国

建国から100年以上経過した副都の洛陽(らくよう)は、平和に慣れきっており、そこを守る唐の政府軍はもろく、安禄山の軍隊を防ぐことができませんでした。安禄山が挙兵してからわずか1ヶ月で洛陽は陥落してしまったのです。

この時点で安禄山は、燕国の建国を宣言し、自身を大燕聖武皇帝と名乗りました。そして、安禄山の軍勢は、いよいよ唐の都の長安に迫ったのです。

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