- 天才諸葛亮孔明の生い立ち
- 三国志に出てくる諸葛氏一族
- 諸葛亮の出庵_臥竜天に登る
- 三顧の礼をとった劉備玄徳の大きさに生涯劉氏に仕える諸葛亮
- 関羽と張飛を黙らせた天才的采配
- 蜀漢の国を劉備玄徳にプレゼントした諸葛亮に意外な誤算
- 呉と結んで魏に対抗した諸葛亮_赤壁の戦い(レッドクリフ)
- 諸葛亮に対抗心を燃やした周瑜
- 風を自在に操った諸葛亮の戦略
- 諸葛亮の読みを裏切った関羽の義侠心と油断
- 関羽の失態によって諸葛亮の第一幕は終わる
- 劉備玄徳死後にも諸葛亮の忠義
- すべての人が泣いた「出師の表」に見る諸葛亮の覚悟
- 出陣時には豪傑たちの姿はなかった
- 諸葛亮の攻撃を食い止めた司馬懿仲達の逃げるが勝ち
- 現代に通じる信念を貫き通す諸葛亮の誠実さ
この記事の目次
天才諸葛亮孔明の生い立ち
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諸葛亮孔明は、後漢時代末期に、今の中国山東省臨浙市で育ちました。身長は8尺(184cm)と言われており、かなり身長が高く、映画やドラマでも長身やせ形の颯爽とした姿に描かれています。
後漢末は混乱の時期でした。父諸葛玄は豫章太守でしたが、朝廷勢力に追い出され、死去したため、荊州新野近くの庵で弟とともに、晴耕雨読の生活をしていたようです。それは、あたかも龍が地に伏せてじっとしているかのようで、史書の「三国志」を書いた司馬徴が、諸葛亮を臥竜と例えています。
その頃の諸葛亮の友人に徐庶がおり、彼は諸葛亮のことを劉備玄徳に盛んに吹聴しました。また、父諸葛玄も荊州の劉表と深い関係があったために、劉表も劉備に諸葛亮のことを紹介していたのです。そのため、当時天下に足掛かりのなかった劉備は、自分を導いてくれる参謀として諸葛亮を望んだと言われています。
三国志に出てくる諸葛氏一族
諸葛亮には、兄と弟がいました。兄の諸葛瑾と弟の諸葛均です。諸葛瑾は、呉の孫権に使えており、弟の諸葛均は、諸葛亮ともに蜀漢に仕えました。特に、兄の諸葛瑾は、諸葛亮のために、呉と蜀の同盟関係を結ぶために骨を折ったことが三国志にも出ています。
諸葛亮の出庵_臥竜天に登る
劉備玄徳の三顧の礼によって迎えられた諸葛亮孔明は、いよいよ世に出ることになります。諸葛亮は、劉備に説いた天下三分の計を実践するために立ち上がったのです。当時の劉備玄徳は、未だ自分の国というものを持っておらず、荊州の劉表を頼って身を寄せている状態でした。すでに後漢王朝最後の皇帝献帝は曹操の傀儡になっており、漢の王朝を復興させるという劉備の夢ははかなくも崩れ去っていたのです。その彼に、諸葛亮は、まず荊州と益州を支配地として蜀の国を建て、魏、呉と天下を三分し、その後、魏の国を滅ぼすという「天下三分の計」を説きました。
劉備玄徳はその戦略に感動し、その実現のためにも諸葛亮を招いたと言えます。最終的には、荊州は関羽の失策によって呉の国に取られてしまいましたが、益州に劉備を国王とする蜀漢という国を打ち立て、天下三分の計を実現させたのです。そして、劉備が亡くなると、彼の生前に実現が出来なかった魏の討伐のためにその後の生涯をかけました。
三顧の礼をとった劉備玄徳の大きさに生涯劉氏に仕える諸葛亮
諸葛亮が、劉備玄徳を三度も訪ねさせたのは、劉備の人物を測るためと言われています。実際に三度も諸葛亮を尋ねたことは史書の「三国志」にも記されており、「三顧の礼」という言葉として残っているのです。劉備玄徳という人物の誠実さ、大きさをよく表した言葉と言えます。諸葛亮もこの劉備の誠実さと人物の大きさに感動して、それまで出仕したことのなかった彼が世に出ることを決意したのです。諸葛亮に、この男なら生涯かけて仕える価値があると思わせた劉備玄徳は、それだけ大きな人物だったと言えるでしょう。
関羽と張飛を黙らせた天才的采配
劉備玄徳がいた荊州新野の城に来た諸葛亮の最初の課題は、劉備の義兄弟である関羽と張飛を如何に彼に従わせるかでした。劉備の有力武将にはこの二人の他に趙雲(ちょううん)もいましたが、彼は誠実な人柄で、すぐに諸葛亮に従います。しかし、関羽はプライドが高く、張飛は気性が荒く、劉備の義兄弟であることを鼻にかけて、劉備以外の言うことには聞く耳を持たなかったのです。そのため、諸葛亮は、天下の豪傑である彼らをうまく使うことが劉備の飛躍に繋がることを見抜きました。
諸葛亮は、魏との小競り合いの中で、天才的な采配を見せて関羽と張飛の信頼を得ることに成功します。この二人の信頼を獲得し、諸葛亮の指示通りに動かせたことが、劉備の蜀建国において大きな要素になったのです。
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蜀漢の国を劉備玄徳にプレゼントした諸葛亮に意外な誤算
諸葛亮は、曹操によって荊州の新野を追われた劉備に、この当時はまだ未開の地と言われた益州を奪って蜀の国(蜀漢)を建てるように進言します。もともとは荊州を奪って、そこを基盤に益州にも領土を拡げるつもりでした。しかし、魏の曹操が予想よりも早く攻勢いをかけてきたために、予定変更をせざるを得なくなったのです。有名な赤壁の戦いの後に、諸葛亮は呉の周瑜との知略合戦に勝って荊州を手に入れますが、結局、荊州を任された関羽が呉の計略にかかって荊州を失ってしまいます。
諸葛亮は、結局、魏呉蜀の天下三分の計には成立しましたが、荊州を奪われたために、魏を討つことはできませんでした。それは、関羽が荊州を失った際、呉の計略にかかって魏に討たれてしまったからです。年取った劉備は、魏を討つ大義よりも義兄弟である関羽を騙した呉を許せずに、かたきを討とうと反対を押し切り、無理に呉に向けて出兵してしまい、その結果、劉備は敗北し、そのまま亡くなってしまいます。
劉備の人物の義侠心は、多くの豪傑も集め、蜀の国を打ち立てることができました。しかし、その義侠心が仇となって荊州を確保することも、魏を討つことも実現できなかったのです。
呉と結んで魏に対抗した諸葛亮_赤壁の戦い(レッドクリフ)
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諸葛亮の軍師としてその名を高めたのはやはり、映画「レッドクリフ」にもなっている赤壁の戦いです。呉との同盟に成功した諸葛亮は、呉に出向き、呉の大将軍周瑜とともに曹操の大軍を湖北省長江の赤壁に迎え撃ちます。長江の両岸に距離を取りつつにらみ合いが続くことになったのです。