中国の歴史

「景教(ネストリウス派)」って何?ヨーロッパから中国に渡ったキリスト教の異端

5世紀、ヨーロッパすなわちキリスト教世界。そこでは聖母マリアやキリストの神性をめぐって大バトルが繰り広げられていました。そこで排斥された異端の1つがネストリウス派です。しかし「景教」という呼称でピンとくる人のほうが多いのでは?追放・弾圧された教えは大陸を横断し、なんと中国にまで!国際派な歴史を持つ異端のキリスト教「景教」の世界を、今回はご紹介しましょう。

景教(ネストリウス派)が旅立つまで

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神学のお時間です。イエス・キリストがエルサレムのゴルゴダの丘で磔にされてから約400年。その教えを語り継ぐために、ヨーロッパ世界では知力を尽くした大論争が繰り広げられていました。正統教義が確立するまでの、数百年に及ぶ大バトル。これはまだカトリックと東方正教会が分かれておらず、西ローマ帝国もギリギリ滅亡していなかった頃のお話です。

聖母マリアの扱いで大ゲンカ!

現在「正統教義」とされているカトリック、東方正教会それぞれの見解をまずは抑えましょう(約1100年後に登場するプロテスタント諸派を含めるとカオス化するのでそこは略します!)。カトリックでは聖母マリアは「無原罪の御宿り」により誕生した特別な存在で、キリストと同じく神によって天に召し上げられたと言われています。東方正教会もまた聖母マリアを「生神女マリア」「神の母」として非常に大きい崇敬を捧げました。聖母マリアは「神の母」なのです。

ネストリウス派は、聖母マリアのことを「神の母(テオトコス)」ではなく「キリストの母(クリストトコス)」である、という立場を取ります。なにがどう違うの?という気分にもなりますが、これにはキリストを脇に置いておく形で加熱する聖母マリア信仰をおさえる狙いがありました。

聖母マリアの立ち位置に関する問題はキリスト教の目の上のたんこぶ的なものです。古くから女神を崇拝して生きてきた人びとは、男性的なイエス・キリストや父なる神ヤハウェ(エホバ)よりも聖母マリアを自然と慕ってきました。聖母マリアの存在のおかげでキリスト教は広く受け入れられたという説まであるほどです。現在に至るまで多くの国で、イエス・キリストよりも聖母マリアのほうが愛されている事実があります。ネストリウスの懸念通りになったと言えるでしょうか。

キリスト教の「正統教義」ができるまで

西暦30年ごろ、イエス・キリストはゴルゴダの丘で十字架に磔にされます。が、そこから先「キリスト教」ができるまでに数百年にも及ぶ大バトルがありました。キリストが逮捕される時、一目散に逃げたほどのヘタレ弟子たちが救世主の「復活」を受けて一念発起したところから、キリスト教ははじまります。とはいえ最初はただのユダヤ教改革運動でした。それを体系立てたのがインテリ使徒の聖パウロ。「書簡」シリーズにより教会の方針を立て、パウロが世を去ったのが紀元65年頃のことです。

最初のシンボルも現在のような十字架ではなく、魚をかたどったものでした。そもそも歴史的には、聖書の成立自体が2世紀ごろと言われています。様々なバージョンや翻訳が存在し、現在も論争が続いているのです。キリスト教の愛と赦しの教えが人びとの心をとらえ、長い禁教期間を経てついに392年にローマ帝国で国教化。しかしその後、帝国は東西に分裂してしまいます。

西ローマ帝国がゲルマン民族の大移動の最中に滅亡したのが、西暦476年。ネストリウス派が異端と判断されたのは同時期の431年のことです。大混乱の世情の中で、正統教義を決めるために神父や司教、修道僧などがキリストやマリア、天使などの神性について様々な主張を申し立て、すさまじい論争を繰り広げたのでした。「カトリック(西方教会)」と「東方正教会」が今の形になった、すなわち互いを破門する大シスマが起こったのはさらに600年後の1045年のこと。大変だったんですね。

エフェソス公会議での対決、異端へ

そんな超カオスのキリスト教世界。教義の確立のために様々な論争が繰り広げられていましたが、5世紀にはイエス・キリストの産みの母マリアの立ち位置について重点的に争われました。これをめぐってアレクサンドリア総主教のキュリロスと、コンスタンティノポリス大主教ネストリウスの言論バトルになります。

事態を収拾するために、教会関係者が一同に会しました。エフェソス(現在のトルコ共和国セルチュク郊外)で開かれた、エフェソス公会議です。この公会議は最初から最後まで大混乱!呼びかけた東ローマ皇帝テオドシウス2世本人が襲撃を恐れて会場到着が遅れたり、破門処置が次々と行われたり。結局聖母マリアは「神の母」であるというところに落ち着きます。ネストリウス派は異端と判断されてしまいました。ネストリウスは大主教を解任されてエジプトへ逃れます。しかしネストリウス派の歴史はここから本当にはじまるのです。

ネストリウス派、中国で「景教」になる。

Museum für Indische Kunst Dahlem Berlin Mai 2006 061.jpg
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ここからネストリウス派のど根性な歴史がはじまります。ネストリウス派は東へ東へ向かいました。ペルシャ帝国、そして唐という国名だった時代の中国へ……。ネストリウス派は光の宗教「景教」として中国で盛んに信仰されることになります。ここでは中国で発展した「景教」について、そしてある石碑をめぐる歴史ロマンあふれるエピソードについて、詳しく解説しましょう。

唐王朝、国際都市・長安で大歓迎!

唐時代というと、日本とは「遣唐使」により平安時代まで交流があった大国です。ちなみに唐代は漢詩の黄金期。唐の都は長安に置かれ、文化的にかなり豊かな時代が続いていました。『長恨歌』の白居易、「国破れて山河あり」で有名な杜甫、さらに李白などが活躍したのも唐の時代です。

結構この唐の国はハイカラ!首都・長安はインド人やペルシャ人が行き交い、ご婦人たちの間では乗馬が大人気。後宮では馬に乗って行うスポーツ「ポロ」(ペルシア起源と言われ、後にイギリスで盛んに)が流行しました。国際都市だったんですね。あまりイメージがわきませんが、海とは違い、てくてく歩いていけば大陸の反対側まで行き着くものです。すごいですね。、

そんなグローバルな中で、中国初のキリスト教はペルシア帝国からやってきた阿羅本(アラホン)という宣教師によって伝えられたといいます。この時伝来した教えこそ、他ならぬ放逐されたはずのネストリウス派。西洋好きの皇帝から歓迎され、唐の国中に広まりました。ネストリウス派は『景教』として中国に根付いたのです。

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