三顧の礼で孔明に真心を伝えた玄徳
諸葛孔明は、偶然が重なったのか、あるいは劉備玄徳の人となりを見るため意図的にそうしたのかはわかりませんが、劉備玄徳の訪問に対して2回までも草庵にはいなかったのです。そして、3度目の訪問でも昼寝を装ってすぐに合ってはくれませんでした。そのため、重要な人を迎えるために礼儀を尽くすことを三顧の礼をいうようになったのです。
それでも、劉備玄徳は辛抱強く孔明が起きるのを待っていました。その玄徳の真心を確認した孔明は劉備玄徳に詫びるとともに「天下三分の計」を提案したのです。
三国志のなかで三顧の礼に感銘した孔明が玄徳に示した「天下三分の計」
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では、諸葛孔明が劉備玄徳に示した「天下三分の計」とは何だったのでしょう。それは、劉備玄徳が目指すものを実現するための策でした。
曹操と孫権に挟まれて身動きが取れなくなっていた劉備玄徳
曹操は、関羽を陣営に引き込むことに失敗し、さらに趙雲子龍という豪傑まで手に入れていた劉備玄徳に嫉妬していました。曹操の下に関羽や趙雲がいれば、もっと簡単に天下を手に入れたれたかもしれなかったからです。
曹操という人は不思議な人で、簡単に人を殺しても平気な反面、自分が惚れた人物にはこの上なく褒美を出し、命を助ける癖があり、それゆえに関羽も趙雲も命拾いをしていました。
一方、南に位置する呉の国は、次男の孫権が継ぎ、足場を固めます。しかし、後漢の中心である中原を制している魏の曹操は呉を国力の点で上回り、警戒すべき相手となっていました。そして、劉表のもとにいた劉備玄徳はその両国に挟まれて身動きが取れなくなっていたのです。
蜀討伐によって曹操、孫権と天下を三分するのが第一歩
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諸葛孔明は、その劉備玄徳に対して北西に位置する蜀に国を打ち立てるように進言したのです。当時、蜀はまだ未開の地として見られており、そこに国を打ち立てるということは誰も考えていませんでした。蜀は、現在の重慶から雲南省にかけて広がる地域で、今でも険しい山々が広がり、少数民族がたくさんいる地域です。当時は、かなり未開の地域と見られていました。しかし、孔明は、その雲南の西方、南方に広がる地域に目をつけていました。今のベトナム、ラオスなどに至る地域は肥沃な土地が広がり、中原の麦作に対して稲の栽培に適しており、将来的に豊かな富をもたらしてくれることを知っていたなりまのです。
そして、孔明は、蜀に国を打ち立てることによって、「天下三分の計」が成立することを劉備玄徳に説きます。それは、二人にとっては第一歩であり、本当の目的は、漢王室を廃して魏の国を打ち立てた曹操を滅ぼして漢王朝を復活させることにありました。
意気投合して蜀を目指した劉備玄徳と諸葛孔明
この諸葛孔明の「天下三分の計」の計画と、魏を滅ぼして漢王朝を復活させることを聞いた劉備玄徳は目から鱗が落ちる思いでした。孔明を自分の師として仰ぎ、軍師として招いて、蜀の国(蜀漢)を打ち立てた後は丞相としてすべてを託したのです。それは、義兄弟の関羽や張飛も口を挟めぬ深い信頼関係を築いていきました。
後に、この二人の付き合いを称して水魚の交わりというようになります。魚は水がなければ、生きることができないように、劉備玄徳にとって諸葛孔明は彼が生きていく上でなくてはならないほどの深い付き合いだったと例えて言ったのです。
三国志のなかで孔明が示した「天下三分の計」とは
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このように、孔明が玄徳に示した「天下三分の計」はまず第一歩に過ぎませんでした。新野を曹操に追われたあとに目指したのは蜀の地でした。そこから、天下三分の計は始まったのです。
蜀の地を得て玄徳は初めて蜀漢の王となり、ついには皇帝となった
諸葛孔明は、兵法を駆使して劉備玄徳に蜀という国を立ち上げさせ、ついに皇帝として天下三分の計の第一歩を成立させます。そして、劉備玄徳に呉の孫権と連携して魏の曹操に対抗することを進めさせたのです。そして、呉の総大将であった周瑜の妨害をものともせずに、ついに「赤壁の戦い」で曹操の魏軍を打ち破りました。映画「レッドクリフ」はその時のことを描いています。