三国時代・三国志中国の歴史

乱世の奸雄「曹操」の生涯とは?わかりやすく解説

『三国志演義』では悪役として、正史の『三国志』としては魏の建国者の太祖武帝として、ひときわ異彩を放った人物がいました。姓は曹、名は操、字は孟徳。歴史上、曹操の名で知られる人物です。人相見は彼を見て「平和な時代は優秀な官僚、乱世では奸智にたけた英雄となるだろう」と評しました。政治・軍事・文化などあらゆる分野で才能を発揮した曹操の生涯についてわかりやすく解説します。

若き日の曹操

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若いころから才気にあふれていた曹操の青年時代は自由奔放なものだったといいます。放蕩を好み素行が悪かったことから周囲の評価は良いものではありません。しかし、都に上って役人になると厳格な官僚として職務に当たります。違反者はたとえ権力者の身内といえども容赦なく罰しました。若き日の曹操の活躍を見てみましょう。

曹操の血筋と人相見の預言

曹操の父、曹嵩は高位の宦官であった曹騰の養子として曹氏をつぎました。去勢された男性である宦官は子供をつくることができないので養子をとることで家を存続させたのです。

裕福な家に生まれた曹操は若いころから奔放でした。狩りに出かけるなど派手に遊んでいた自分の素行について父や祖父に報告する叔父を疎ましく思った曹操は一芝居うちます。

曹操は叔父の前でわざと顔がマヒしているかのような様子を見せて「顔の表情がもどらない」といったことを訴えました。慌てた叔父が父の曹嵩に報告。曹嵩が曹操のもとに来ると、いつもと同じ様子で「何も変わりませんよ。叔父さんは私のことを嫌っているから私の顔がゆがんでいるようにみえたのでしょう。」といいました。

父は叔父の言うことを疑うようになり、曹操を信じてしまいます。子供のころから知恵が回ったのでしょうね。あるとき、曹操が有名な人相鑑定士のもとを訪れると、鑑定士は「あなたは平和な時には優秀な官僚、乱世では奸智に長けた英雄となるだろう」と予言。この予言はのちに的中します。

青年官僚、曹操の活躍

20歳の時、役人として政府に推薦され彼のキャリア官僚としての人生が始まります。しばらくして彼がついた役職が首都である洛陽の北部尉という役職でした。洛陽の街を東西南北の4つに分け、それぞれを管轄する部尉がおかれました。洛陽の北側を管轄するのが北部尉。盗賊を逮捕や治安を守る仕事にあたっていました。

曹操は違反者を厳しく取りしまり、たとえ有力者の演者であっても容赦しません。当時の有力宦官だった蹇碩(けんせき)の叔父が夜間通行を禁止する命令に背いたため、即座に打ち殺します。蹇碩の縁者でさえ容赦されないと知った人々は曹操を恐れ、法を犯すものはいなくなりました。曹操の存在を疎ましく思った宦官たちは市町村長にあたる県令に任命して彼を洛陽から厄介払いします。

黄巾の乱に従軍

後漢末期の184年、宗教団体である太平道の教祖張角を指導者とする農民たちが大反乱を起こしました。黄巾の乱です。「蒼天已死 黃天當立 歲在甲子 天下大吉」。蒼天は漢王朝を表しています。張角は「漢王朝は既に滅んでいる。だから黄天、新しい王朝をたてるべきだ」と主張しました。

黄河下流域を中心に起きた反乱は瞬く間に拡大。事態を重く見た霊帝は大将軍何進に討伐を命じます。曹操は騎都尉(きとい)に任じられ一軍を率いました。曹操は豫州(よしゅう)・潁川(えいせん)の黄巾軍と戦っていた官軍を救援し、ともに黄巾軍を撃破します。

その後も黄巾軍討伐に従軍し、戦後には県知事クラスにあたる相に任命されました。済南の相となった曹操は汚職管理の摘発などで功績を上げます。のちに、東郡の太守(これも県知事クラス)に任命されました。

反董卓連合軍への参加

黄巾の乱を鎮圧したのちも、後漢王朝の政治腐敗は変わりませんでした。腐敗の原因は皇帝のそばにいて勝手気ままに政治をする十常侍とよばれる宦官たちだと考えた大将軍の何進は宦官粛清を計画。地方の有力者たちに都に上るように促したのです。

危機を感じた十常侍は何進を暗殺。しかし、何進の部下だった袁紹袁術は宮殿を攻めて宦官を皆殺しにします。都が混乱を極めていた時、大軍を率いて登場したのが董卓でした。

董卓は軍の力を背景に少帝を退位させ、献帝を即位させます。董卓の暴虐ぶりを見た曹操は都を脱出。故郷の陳留で私財を投じて挙兵しました。最初に彼に付き従ったのは夏候惇・夏侯淵・曹洪・曹仁・曹純ら身内が中心で勢力も小さなものです。

袁紹を盟主とした反董卓連合軍が結成されると曹操も参加。都に居座る董卓の討伐を目指しました。董卓は都の洛陽を焼き払い本拠地に近い西の長安に撤退。追撃した曹操は手痛い敗北を喫します。当面の目標である董卓が西に去ったことで連合軍の足並みはそろわなくなり、反董卓連合軍は解散しました。

姦雄曹操、中原にて勢力を拡大

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反董卓連合軍が解散後、中国各地で群雄が割拠し対立・抗争を繰り返しました。曹操は青州兵を従えて各地を平定します。やがて後漢皇帝の献帝を迎えることで曹操の勢力は頭一つ抜き出ました。しかし、順風満帆に勢力を拡大したわけではありません。宛城の戦いでは息子の曹昂や中心の典韋を失います。曹操飛躍の時代を見ていきましょう。

青州兵との出会い~魏武の強、これよりはじまる~

董卓軍と反董卓連合軍の戦いは後漢全体を大きく揺るがしました。その結果、一度は鎮圧された黄巾軍が再び力を持ち始めます。太平道を信仰する彼らの団結は強く、大軍を組織する能力もありました。

そして、現在の山東省にあたる青州では黄巾軍残党の大規模な反乱が発生。黄巾軍残党は兗州(えんしゅう)へとなだれ込みます。兗州の刺史(複数の県知事の上に立つ地方長官)である劉岱が黄巾軍残党を迎撃しますが大敗。混乱を抑えるために乗り込んだのが曹操です。

曹操は巧みな用兵の前に青州の黄巾軍は降伏。曹操は降伏した黄巾軍残党の中から優秀なものを10万人選抜、彼の軍団に加え青州兵と名付けました。青州兵は太平道の信仰を許され、曹操一代に限り忠誠を誓約。青州兵は曹操の忠実な軍団として彼の覇業に貢献します。のちに曹操が死んだとき、青州兵は一代限りの忠誠という約束に従い故郷へと帰っていきました。

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