後漢末期の中国
By Qing Dynasty – The Scholars of Chenzhou, パブリック・ドメイン, Link
紀元25年に光武帝が建国した後漢は2世紀に入ると混乱から衰退へと向かいます。政治改革を断行しようとする官僚たちと皇帝の側近として力をふるっていた宦官がたびたび激突。その結果、政治的な混乱である党錮の禁がおきました。党錮の禁に勝利した宦官たちは以前にも増して権力を私物化します。後漢末期におきた黄巾の乱により後漢王朝は大ダメージを受けました。
官僚と宦官の抗争
後漢の末期、朝廷では去勢され後宮で皇帝に仕える宦官と儒学を学んだ官僚が対立します。
皇帝の妻の親族である外戚を排除した宦官たちは権力の中枢にいました。宦官たちは皇帝が幼いころから側近として仕えていたため皇帝の信任を受けています。地方の有力者や官僚として出世したいと考える人々は宦官にわいろを贈って高い地位を得ようとしました。
一方、宦官とは無関係に官僚となった人たちは儒教の考え方で国を治めようとします。そして、官僚は宦官を儒教の教えに反し腐敗しているとして批判しました。
危険を感じた宦官たちは官僚たちを党人とよび排除しようとしました。166年、宦官たちは党人を一斉に逮捕。政治の実権を確保します。この事件を党錮の禁といいました。党錮の禁で党人を排除した宦官たちは以前にもまして思うままに政治を動かします。
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十常侍の台頭と深刻な政治腐敗
後漢の歴史について書かれた歴史書『後漢書』。それによれば、後漢末期の霊帝の時代、政治権力を握った宦官たちがいました。『後漢書』は彼らのことを十常侍とよびます。
霊帝は政治にほとんど関心を示しませんでした。しかも、霊帝は十常侍を完全に信任していたため、彼らは排除される恐れがありません。そのため、十常侍は好きなように政治を行うことができます。
十常侍の親族たちは、十常侍のおかげで地方官僚となりました。そして、各地で人民を搾取し、私腹を肥やします。十常侍やその親族たちは民衆からの憎悪の的となりました。
事態を憂えた人物は朝廷に十常侍やその親族たちの横暴を訴えましたが、逆に処罰されてしまいます。こうして、後漢の政治は破滅的なものとなり加速度的に悪化、民衆の怒りや不満は頂点に達しました。
黄巾の乱
後漢末期、河北省出身の張角が呪術で病人を治療する活動を行いました。貧困に苦しみ政治に絶望した民衆は張角のもとに集まります。張角は「太平道」という新興宗教を立ち上げました。張角の太平道は瞬く間に信者を獲得。数十万の信徒を得るまでに成長しました。
184年、張角は自ら「大賢良師」と称し「蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし」をスローガンとする大反乱を起こしました。張角を信じる太平道の人々は黄天を象徴する黄色の頭巾を頭に巻いていたため、彼らの反乱は黄巾の乱とよばれました。
宦官たちは地方の党人が黄巾の乱に協力することを防ぐため、彼らを許します。しかし、後漢の中央政府には黄巾の乱を鎮圧するための十分な兵力がなかったため、後漢政府は地方の有力豪族に協力を求めました。
この要請に応じたのが袁紹や曹操、丁原、董卓、孫堅といった豪族たちです。のちに『三国志演義』の主人公となった劉備も黄巾の乱鎮圧のため活動しました。
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黄巾の乱後の混乱
黄巾の乱は首謀者である張角の病死により当初の勢いを失います。各地の豪族たちは後漢政府軍に協力し黄巾の乱を鎮圧しました。
しかし、乱が鎮圧されても根本原因である後漢の不正や民衆に対する過酷な政治は改まることがありません。黄巾軍の残党は各地で粘り強く抵抗します。そのため、後漢王朝は地方を統制する力を次第に失っていきました。
189年、霊帝が死去すると皇后の弟であった大将軍の何進は少帝を立て実権を握ろうとします。少帝を擁立した何進は地方の有力者に軍を率いて都に来るように命じました。目的は宦官を排除するためです。
ところが、家臣の動きを察知した宦官たちは何進を謀殺してしまいました。何進の死を知った部下の袁紹は宮中に乱入し宦官たちを誅殺します。都の洛陽は混乱状態となってしまいました。
都で活動する呂布
何進の命を受け都に集まった有力者は丁原や董卓などでした。丁原は現在の山西省太原市周辺に置かれた并州(へいしゅう)付近を防備していた武将です。丁原は呂布の勇猛と武芸の腕前を買って登用しました。呂布は董卓の誘いを受けると丁原を殺害し董卓に寝返ります。その後、呂布は董卓軍随一の猛将として力を発揮しました。