「天下三分の計」は実現できたが漢室復興はかなわなかった
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しかし、その後、孔明が周瑜との知恵比べに勝って得た荊州を関羽に守らせていましたが、その関羽は呉と魏の計略で関羽がおびき出せれてついに死去してしまいます。すると、劉備玄徳は孔明の止めるのも聞かずに、呉に出陣し、結局白帝城で帰らぬ人となってしまいました。そのために、諸葛孔明は劉備玄徳との約束であった魏の討伐を彼の生きている間に達成することはできなかったのです。
しかし、諸葛孔明は、劉備玄徳との約束を忘れませんでした。凡庸な二代目の劉禅を皇帝にすると、国力を回復させて、ついに劉禅に「出師の表」を提出して、魏討伐のため出陣していったのです。でも、それは、せっかく実現した天下三分の計を活かしたとはいえませんでした。
すなわち、天下三分の計を実現したならば、呉と組んで魏を討伐する計画でした。しかし、劉備玄徳が孔明が止めるのも聞かずに呉を攻めたために、協力して魏を倒すことができなくなったのです。魏討伐には、時間がかかり、すでに張飛は部下に殺され、趙雲は年をとって出陣できず、かつての劉備玄徳軍の中心を担った武将たちはいなくなっていました。
五丈原で諸葛孔明が没して万事休す
そして、諸葛孔明が率いた蜀漢軍は、魏の総大将の司馬懿仲達の勝てなくても、大敗をせずに戦いを長引かせるという作戦によって決着をつけられませんでした。そしてついに戦場になった五丈原の戦のなかで、諸葛孔明は病死して蜀軍は退却せざるを得なくなったのです。
その後、司馬懿仲達とその一族は、魏の国を乗っ取り、さらに蜀、呉を討伐して天下を統一しています。
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三国志における「天下三分の計」の意味合い
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諸葛孔明が示した「天下三分の計」は、どんなに追い詰められても広く視野を持って戦局を眺めれば、必ず進むべき道が見つかることを示していました。当時、誰も目を付けていなかった蜀の地を手に入れることで、勢力の均衡が図れることを俯瞰していたのです。
現代の世界も三国志の初期段階と似た状況にあるといえます。冷戦による大国間の対立による均衡の時代は終わり、先進国と発展途上国という構図も中国、インド、ブラジル、ロシアなどが独自の世界戦略を持って混沌とした世界になっているのです。
三国志の「天下三分の計」に見習うべきときが来ている
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もはや、現代は同盟というものに頼っている時代ではなく、長期的な見通しを持って国の進むべき道を模索すべき時代になっています。諸葛孔明のように世界を俯瞰して見て、進むべき新しい道を見つける時代に私たちはいるのです。新型コロナウイルスによるパンデミックはそのちょうど良い機会をいえるかもしれません。