天下の覇者となった三好家
日本が戦国時代に突入していた16世紀前半、麻の如く乱れた天下にあって台頭してきたのが三好家でした。阿波国(現在の徳島県)の守護代に過ぎなかったこの家が、なぜ天下を掌握するに至ったのか?まずそこから解説していきましょう。
畿内と繋がりが深かった三好家
室町時代も後期になると足利幕府の力は衰え、代わって勢力を伸張していたのが幕府管領職を担っていた細川氏や山名氏、畠山氏といった武家の名族でした。
しかし山名氏や畠山氏らは内紛や家督争いなどによって、徐々に勢いが衰えていき、実質幕府の実権を握ったといえるのが細川氏だったのです。
とりわけ細川政元は、将軍や皇室ですらまったく軽視し、「半将軍」と呼ばれるほど勢威を誇って意のままに政治を動かしました。まさにこれが細川氏の全盛期だったといえるでしょう。
しかしそんな政元も家臣筋によって暗殺されてしまいます。実子がなかったため、養子たちによる家督争いが勃発し、せっかく栄華を誇った細川氏の屋台骨も大いに揺らぐことになりました。
結局、家督争いに勝った細川高国が実権を握ることになりますが、もう一人の養子細川澄元は敗れて阿波国へ逃げ帰り、そこで病死しています。澄元の部下だった守護代三好之長も果敢に戦いますが、敗れて処刑され、高国政権は盤石なものとなったのです。
いっぽう澄元の嫡男細川六郎(のちの晴元)と、之長の孫三好元長は密かに逆襲の機会を窺っていました。
1526年、捲土重来を期した元長らは畿内へ進攻。各地で激しい戦いが繰り広げられた挙句、高国を討滅して政権を奪取することに成功しました。
しかし長きにわたる戦乱の火種が消えることはありません。元長の存在を疎ましく思った細川晴元(六郎)が、あろうことか元長の追い落としを図ったのです。
晴元によってけしかけられた一向一揆衆数万が背後から元長の陣を襲い、防戦もままならぬまま元長は自害する憂き目に遭いました。
この時、元長は堺市にあった顕本寺で、掻っ捌いた腹から内臓を取り出して天井へ投げつけたという逸話が伝わっています。
三好家当主は相次いで戦いに巻き込まれ、いずれも非業の死を遂げることになりましたが、畿内との結びつきは強固なものとなり、やがて三好長慶の時代になるや有利に働いていくのです。
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三好長慶の登場と三好三人衆
やがて一向一揆の勢いを抑えられなくなった細川晴元は、父の死によって家督を継いだばかりの三好範長(のちの長慶)と和睦します。自分の家臣を殺しておきながら恥も外聞もなく、その息子と仲良くしようとするあたりに、この時代の複雑さが象徴されているのではないでしょうか。
しかし範長は密かに晴元らを追い落とすべく機会を狙っていました。主君と晴元と不和になった範長改め長慶は、将軍足利義晴ともども京都から追い出し、1550年に晴元が亡くなったこともあって事実上の実権を握るに至りました。ここに三好政権が誕生したのです。
三好三人衆と呼ばれる重臣たちも、長慶のために大いに働いて天下取りを手助けしました。
まず筆頭格が三好長逸(みよしながやす)。かつて自害させられた当主三好之長の四男の子であり、三好一族の長老的立場でした。長慶からすれば従叔父になりますね。敵対勢力だった細川晴元や別所氏、波多野氏らを次々と討伐し、長慶の天下取りに貢献しています。
そして三好政康(みよしまさやす)。こちらは亡き之長の次男の孫だとされていますね。当初は晴元家臣として長慶と干戈を交えるも、のちに臣従し、丹波八上城攻めや久米田の戦い、教興寺の戦いなどに参戦して武功を挙げました。
最後は石成友通(いわなりともみち)です。主税助(ちからのすけ)という通り名としても有名で、この人だけ三好一族の血を引いていないにも関わらず、政権の中枢的人物として出世を遂げました。また出自も三好家本貫の阿波ではなく、大和や備後という説が有力です。奉行職を務め、文芸や武芸に秀でた人物としても知られていました。
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長慶の死と三好家の分裂
中央の政権を握り、織田信長より以前に天下の覇者となった三好長慶。しかしその栄華も長くは続きません。度重なる身内の不幸を経て、分裂の時代へ向かうことになるのです。
三好一族の相次ぐ不可解な死
長慶が天下を獲れたのは、彼一人の力だけではありませんでした。松永久秀や三好三人衆といった優秀な家臣団の働き以上に、三好一族の結束が固かったからです。
長慶には兄弟が他に三人おり、次男の三好実休(義賢)、三男の安宅冬康、四男の十河一存らが一枚岩となって三好家を支えていました。このうち三男と四男は他家へ養子に入り、それぞれ讃岐や淡路の実権を握っていたのです。
しかし三好家が政権を掌握して以降、身内の不幸によってその結束が崩壊していくことになります。
1561年、まず四男の一存が突然の病のために急死。次いで翌年には次男の実休が久米田の戦いで戦死してしまいます。さらにその翌年には長慶の嫡男義興が急病に倒れて帰らぬ人となってしまいました。相次ぐ身内の死に心身を蝕まれた長慶は疑心暗鬼となり、唯一残った弟の冬康までも謀反の疑いを掛けて殺してしまったのです。
一説には、三好家家宰の松永久秀が画策し、三好家の身内たちを死に追いやったとされていますが、こればかりは動機に乏しく、現在の歴史研究では否定されていますね。
将来を嘱望していた義興を失った長慶は、一存の息子義継を跡継ぎとして定め、1564年に一人寂しく亡くなってしまいました。
こうしてあっという間に三好家は瓦解しましたが、その後に続く分裂と混乱を誰が予想したでしょうか。
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三好三人衆と松永久秀。対立の構図
こうして三好家当主として義継が擁立されましたが、彼はまだこの時15歳と年若く、権力基盤は脆弱だったといえるでしょう。いっぽうこの機に乗じて将軍足利義輝は、将軍権力の強化を図る動きに出ます。長慶という存在がなくなった今、室町幕府の権力中枢を自らに集中させようとしたのでした。
しかしこの義輝の動きに素早く反応したのが義継ら三好一党でした。1万もの軍勢を京都へ集め、義輝の御所を急襲したのです。もちろん三好三人衆らも加担しています。結果、この暴挙ともいえる軍事行動で義輝は自害し、幕府の権威はますます失墜することになりました。
この事件ののち、松永久秀と三好三人衆とは不和になり、分裂と対立を繰り返すようになりました。三人衆側は義継を擁立し、軍事的に久秀を圧倒。阿波から将軍の流れを汲む足利義栄を招いて、次の将軍に据えようとしたのです。ところが三人衆たちはひたすら義栄を押し戴いて、三好家当主たる義継をないがしろにする態度を示しました。
そこで我慢ならなくなった義継。三人衆たちの元を飛び出して、今度は久秀の陣へ駆け込んだのです。久秀が喜んだのは言うまでもありません。ここに来て戦況は膠着状態となりました。
1567年、三人衆らが陣取った東大寺を松永勢が急襲。松永久秀は大勝利したものの大仏殿に飛び火し、大仏までもが焼失してしまいました。世間の人々は久秀を怨嗟の的にしましたが、そんなところに陣を張っていた三好三人衆にそもそも非があり、単なる三好方の失火ともいわれていますね。
こうして三好家中が対立を繰り返している最中、虎視眈々と京都を窺う人物がいました。そう、織田信長です。信長の上洛を機に、畿内の情勢は変革を遂げることになります。
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