三国時代・三国志中国の歴史

三国志の中でも猛将中の猛将「張飛」その生涯を分かりやすく解説!

中国の歴史書の中で、日本でもっとも有名かつ親しまれているのは三国志だと思います。英雄豪傑があまたひしめくその三国志の中で、張飛(ちょうひ)は5本の指に入る猛将。気性の荒いところはありますが、主君・劉備(りゅうび)と兄貴分の関羽(かんう)に対しては、固い忠義心を捧げました。いったいどんな人物だったのか、わかりやすく解説していきたいと思います。

生涯の主・劉備と兄貴分・関羽と出会う

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張飛は、後漢末期の黄巾の乱(こうきんのらん)をきっかけに、主君となる劉備、そして兄貴分となる関羽と出会い、劉備の護衛役となりました。恵まれた体格である上に強面だった彼は、暴れ馬のような男と三国志演義には伝えられています。勇猛でしたが、性格は少々乱暴なところもありました。それが災いすることもあったのですが…劉備との出会い、そして欠点をさらけ出してしまったエピソードなど、史実である正史と交えながらご紹介しましょう。

「暴れ馬のような男」張飛

三国志の豪傑たちによく見られますが、張飛もまた生まれた年はわかっていません。つまり、低い身分から一気に出世し、歴史に名を残したというわけですね。

出身地は幽州涿郡(ゆうしゅうたくぐん/河北省から北京市付近)で、後に主となる劉備も同じ場所の出身です。

字(あざな)は益徳(えきとく)。明の時代に成立した小説・三国志演義では翼徳(よくとく)となっていますね。その中では、身長は8尺(約184センチ)、ぎょろっとした目に虎髭の持ち主で、まるで暴れ馬のような男だと描写されています。武器は1丈8尺(約4.40メートル)もある蛇矛(だぼう)で、これを縦横無尽に振り回して多くの敵を倒しました。

劉備・関羽との出会い

時代は後漢(ごかん)末期。王朝の末期はいつもそうですが、皇帝の力は低下し、世の中は乱れ、あちこちで反乱が起きるようになっていました。

そんな中、184年に農民反乱である黄巾の乱が勃発します。それに対抗するための義勇軍を立ち上げたのが、劉備でした。

その噂を聞きつけた張飛は、すでに知り合っていた関羽と共に義勇軍に参加し、劉備の警護役となったのです。

三国志演義では、劉備が義勇兵募集の立札の前で溜息をついていたところに張飛が出くわし、「大の男が溜息とは情けない」と声をかけたのが出会いとなっています。そして酒場で意気投合した関羽と共に張飛の屋敷の裏庭にある桃園(とうえん)に行き、義兄弟の契りを交わすのです。これが「桃園の誓い」と呼ばれる話ですね。

史実では桃園の誓いはありませんが、張飛は常に年長の関羽を立て、主である劉備に忠誠を捧げていくこととなります。

同僚と不仲のため、本拠地を奪われてしまう大失態を犯す

やがて劉備が公孫瓚(こうそんさん)のもとに身を寄せると、張飛も一軍を指揮する立場となります。その後、劉備が陶謙(とうけん)から徐州(じょしゅう/山東省南東部・江蘇省長江以北)の長官である牧(ぼく)の座を譲られると、劉備は徐州を狙う袁術と戦うことになりました。

劉備は袁術と戦うことになりますが、張飛は劉備の本拠地・下邳(かひ/江蘇省北部)の守備を任されます。ところが、ここで張飛は大失態をおかしてしまうことになるのです。

張飛は、同僚の曹豹(そうひょう)という男はうまくいっていませんでした。そして、曹豹は、この時劉備のもとに身を寄せていた猛将・呂布(りょふ)と結託し、下邳を占領してしまったのです。張飛はどうすることもできず、下邳を奪われたうえに劉備の妻子まで捕虜とされてしまいました。

張飛の端緒:酒癖の悪さと気性の荒さ

三国志演義では、張飛が曹豹に酒を飲むように強制し、曹豹がそれを断ると、張飛は怒って彼をむち打ちしてしまいます。曹豹は、三国志演義では娘婿という設定の呂布にそれを伝え、呂布に下邳を奪わせたのです。張飛の酒癖の悪さが災いしてしまったのでした。

張飛の性格は横暴だったと伝わっていますが、その悪い面が強調されて描かれてしまったというわけです。もちろん、豪快で強い面もかなり強調されているのですが、そうした両極端なところが、張飛の長所であり短所だったのですね。

というわけで、本拠地を失った劉備は、やむなく曹操を頼ることとなったのでした。

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