中国の歴史

中国を象徴する世界遺産「万里の長城」の歴史とは?わかりやすく解説

中国の世界遺産として名高い万里の長城。世界各地からたくさんの観光客が一目見ようと押しかけます。現在残る万里の長城は明の時代に整備されたもの。しかし、長城を最初に整備し異民族の侵入を防ごうとしたのは初めて中国を統一した始皇帝です。人工衛星からも見える万里の長城には、いったいどんな歴史が秘められているのでしょう。今回は万里の長城の歴史についてわかりやすく解説します。

万里の長城建設の背景

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万里の長城や中国の歴史を語るうえで欠かせないのが遊牧民との関りです。日常的に馬を乗りこなし狩猟生活を送る遊牧民は戦時には恐ろしい戦闘力を発揮しました。中国人にとって彼らを食い止めることはとても重要なことです。始皇帝が万里の長城を築く前、中国側はどうやって遊牧民に対処していたのでしょうか。

中国と遊牧民の関係

中国の北方にあたるモンゴルの草原地帯には遊牧民族が暮らしていました。遊牧民は草原でヒツジや馬などを飼育し、毛皮や肉などを手に入れます。それらの品物を周辺の農耕民族と取引することで生活が成り立っていました。

しかし、ひとたび周辺の農耕民との関係が悪化すると彼らは馬に乗って農耕民の集落を攻撃し略奪。銃や大砲がない時代、自由自在に馬を操り騎乗して攻撃してくる遊牧民に対して農耕民は苦戦を強いられます。

農耕民が大軍を動員し遊牧民と戦おうとしても、遊牧民は一定の場所にとどまらないので打撃を与えることは困難でした。敵の軍が引き上げると、遊牧民はどこからともなく現れて略奪を繰り返します。根絶することが難しく、常に脅威にさらされている中国の農耕民からすると遊牧民は厄介な存在だったことでしょう。

万里の長城建設以前の状態

今から2500年以上前の中国は春秋戦国時代。このころ、中国各地はいくつもの国にわかれていました。そのうち、強力な7つの国が中国にできます。これを戦後の七雄とよびました。

戦国の七雄は国境沿いに防御施設として長城とよばれる長大な壁を建設します。長城は文字通り防御線として国を守っていました。北方の遊牧民と国境を接する燕・趙・秦の3国は遊牧民に対抗するため、それぞれ独自に長城を建設。繰り返される北方遊牧民の攻撃に備えていました。遊牧民に対抗して長城を建設する目的は遊牧民の機動力を封じ込めることです。

そのために、高さ2メートルほどの壁を建設し行く手を遮りました。このころの長城は泥と葦でつくれたもので現代の印象と全く異なるものです。それでも機動力のハンデを補うことができるため、一定の効力はありました。

始皇帝による中国統一

紀元前247年、戦国の七雄で最も強い力を持つ秦にあらたな王が誕生します。王の名は。のちに始皇帝と呼ばれる人物です。秦王は他の6国を戦争で圧倒。次々と攻め滅ぼしていきました。

紀元前221年、秦王政は中国を統一し始皇帝を名乗ります。始皇帝は全国を軍と県に分け強力な中央集権国家を作り上げました。また、官僚制度を整備し始皇帝の意思を全国に行き渡らせようとします。法律を厳しく運用することも秦の政治の特徴。政治的・軍事的・経済的な統一を進めた結果、史上空前の中央集権国家が誕生しました。

始皇帝の命令で多くの人々が宮殿建設や軍事施設の建設などに動員されました。始皇帝は統一によって得た大きな力を使って北方遊牧民対策に乗り出します

 

万里の長城の建設

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始皇帝は抜本的な強度対策に乗り出します。大軍を動員して匈奴の根拠地まで派遣し戦闘を繰り返す一方、匈奴の反撃に備えて戦国の七雄が築いた長城の修築・連結を進めました。始皇帝の築いた長城は同じく匈奴対策に熱心だった漢の武帝に引き継がれます。始皇帝や武帝はどのような長城を築いたのでしょうか。

 

始皇帝による匈奴討伐

始皇帝が中国を統一する前後、モンゴル高原で強大な力を持っていたのが匈奴とよばれる遊牧民族です。彼らは騎馬遊牧民。馬上から弓を射ながら行う攻撃は歩兵中心の中国の軍勢にとって大きな脅威でした。

紀元前215年、始皇帝は蒙恬(もうてん)将軍に30万の軍を与えて匈奴を攻撃させます。この時、都の咸陽から内モンゴルの包頭(ぱおとう)までを結ぶまっすぐな道がつくられました。直道といいます。直道は山を削り谷を埋め立てて造りました。今でもその一部が残されています。

軍隊や人々が通行しやすいように細かな土を幾重にも敷き詰めた道路はまるで古代の高速道路といったところでしょうか。蒙恬率いる秦の大軍もこうした道を使ったのでしょう。以前に比べ数の上でも機動力の上でも強化された秦軍の前に、さしもの匈奴も後退します。

万里の長城の建設

始皇帝は匈奴を攻撃させるだけではなく、匈奴が反撃してきたときに備えて長城の修築を進めました。戦国時代の燕や趙・秦も各自で長城を作っていましたが、それらの長城を修築・連結させることで切れ目のない長城を作ろうとしたのです。

この当時の長城は粘土や藁を固めてつくられた建造物で、城というよりも壁に近いものでした。馬によって飛び越えられないよう、幅が3~5m、高さが2m程度の壁を作ったと思えばわかりやすいでしょう。つくりが簡素とはいえ連結する距離が尋常な長さではありません。始皇帝は建築にあたる労働者を各地からかき集めます。

同じころ、始皇帝は都に壮大な宮殿である阿房宮も建設していました。相次ぐ巨大工事に動員された民衆は秦の政治に強い不満を募らせました。長城建設は民衆の負担と引き換えの大事業だったのです。

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