- サンフランシスコ平和条約とは
- サンフランシスコ平和条約が成立するまでの背景
- 終戦当初のGHQの姿勢とは
- ソ連の東欧支配に始まる東西冷戦の勃発
- 中南米における共産主義革命
- 米国では赤狩りが始まるとともに日本の地政学的見直しもおこなわれた
- サンフランシスコ平和条約への道のり
- 朝鮮戦争の発生によって日本の新たな役割が明確に
- 朝鮮戦争の勃発による景気回復
- 機会を活かした吉田首相の交渉
- 吉田首相の独断で西側諸国のみとの交渉
- サンフランシスコ平和条約の調印と内容
- 日米安全保障条約の調印
- 海外の日本領土の放棄
- サンフランシスコ平和条約の問題点
- ソ連、東側諸国とは調印せず
- 韓国との領土問題である竹島は棚上げされた
- サンフランシスコ平和条約は日本にとって最善だったのか?
- 本来は東西冷戦の終わった1989年に関係見直しがおこなわれるべきだった
- 日本はサンフランシスコ平和条約によって将来を決められたのか?
この記事の目次
サンフランシスコ平和条約とは
image by iStockphoto
第二次世界大戦に敗れた日本は、アメリカを中心とした連合国の進駐軍であるGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の統治下に置かれました。そして、日本は、1951年9月8日にサンフランシスコ平和条約に西側諸国49ヵ国の全権代表らと署名調印をおこないます。そして、各国政府の批准の終わった後、その効力は1952年4月28日に効力を発揮し、正式に再独立を果たしたのです。
現在の日本人のほとんどの人は、GHQが進駐していたことは知っていても、日本が独立国でなかった時期があったことを知る方は少ないでしょう。しかし、このサンフランシスコ平和条約が発効するまでは、日本という国は国際的には存在していなかったと言えます。
この、日本が再独立を果たすことが認められたサンフランシスコ平和条約について詳しく見てみましょう。
こちらの記事もおすすめ
サンフランシスコ平和条約が成立するまでの背景
日本は、第二次世界大戦に敗れて占領下に置かれ、ほとんどの国民は敗戦の焼け跡のなかで悲惨な状況に置かれていました。早く連合国軍と平和条約を交わして再び自分たちでこの国を立て直したいと願っていたのでしょう。しかし、GHQの姿勢は厳しいものがあり、簡単には再独立をすることはできなかったのです。
こちらの記事もおすすめ
今さら聞けないGHQの占領政策。占領政策が日本に与えた影響とは – Rinto~凛と~
終戦当初のGHQの姿勢とは
日本に進駐したGHQは、当初は世界を第二次世界大戦に引き込んだ国を二度と戦争のできない国にしてしまうことが基本姿勢になっていました。そのために5大指針を示すとともに、日本の経済再建に対しては消極的な姿勢を示していたのです。5大指針というのは、
1.女性参政権の付与
2.労働組合の結成奨励
3.教育制度の自由主義的改革
4.秘密警察などの廃止
5.経済の民主化(財閥解体、農地改革)
などでした。
戦争を嫌う女性の参政権を持たせ、軍部と結びついた秘密警察や財閥を解体し、自由主義の教育によって戦争に対する反対姿勢が容易に発言できようにしたのです。
そして、何よりも戦争を遂行できる経済を回復させないことが重要な課題になっていました。
昭和24年くらいまでは、GHQは日本の国民が配給される食糧の統制でどれだけ苦しめられ、闇市に頼っていても手を差し伸べることはせず、経済回復は日本の政府に任せています。そのため、日本経済はほとんど回復できず、極端なハイパーインフレも起こっていたのです。
ソ連の東欧支配に始まる東西冷戦の勃発
image by iStockphoto
しかし、ヨーロッパでは、連合国側にいた共産国家のソ連が戦時中のヤルタ会談などの協定を破って東欧に進出占領し、次々と社会主義国を打ち立てさせていました。せっかく国際連合が結成されても、新たな対立が生まれてしまったのです。そのため、アメリカを中心とした西側諸国には、ソ連を中心とした東側諸国に対抗してNATO(北大西洋条約機構)を設立し、東西冷戦が勃発したのでした。
西側諸国は、自由主義、資本主義を掲げており、ソ連が土地、資本などの私有を許さない共産主義(社会主義)を拡散して、それぞれの国での共産革命を起こすことを恐れたのです。アメリカなどでは、赤狩り(レッドパージ)がおこなわれるようになっていました。
こちらの記事もおすすめ
第二次世界大戦終結に向け開かれた「ヤルタ会談」とは?わかりやすく解説 – Rinto~凛と~
中南米における共産主義革命
とくにアメリカは、中南米を大きな市場としており、そこで共産革命によって共産主義国家が生まれることを強く警戒していたのです。実際にキューバはカストロ、チェ・ゲバラなどによって共産主義革命が起こり、ゲバラなどはさらに中南米でもこの流れを拡大しようとしていました。
そのため、アメリカは厳しくそれらの動きに対して対抗するとともに、アメリカ国内でも共産主義者を追放する動き(赤狩り)を強めていたのです。
こちらの記事もおすすめ
キューバ革命の英雄「カストロ」議長をわかりやすく解説 – Rinto~凛と~