室町時代戦国時代日本の歴史

戦国最強の島津氏を支えた「島津家久」とは?すごさを語り尽くす

九州は薩摩(鹿児島県西部)に本拠地を置いた島津氏は、戦国時代に九州統一を目前にまで成し遂げた一族。戦国最強と呼ばれる島津四兄弟は、その名を天下に轟かせました。その四兄弟の末弟・島津家久(しまづいえひさ)は、武勇に優れ、島津氏の躍進の立役者となりました。彼はなぜそこまで立派な武将となったのでしょうか。彼の生涯を紹介しながら、その理由を見ていきたいと思います。

一人だけ母が違う末っ子として、時に心無い言葉にも耐えた少年時代

image by PIXTA / 50297367

島津家久は、再び勢いを増し周辺諸国へ領土を広げ始めた島津氏に生まれました。上には3人の兄がいましたが、家久だけ母親が側室だったため、時に心無い言葉を投げかけられることもあったようです。しかしそのコンプレックスを克服させてくれたのは、一番上の兄の言葉でした。家久の少年時代をご紹介しましょう。

島津四兄弟の末弟として生まれる

島津家久は、天文16(1547)年、薩摩の戦国武将・島津貴久(しまづたかひさ)の四男としてこの世に生を受けました。

島津氏は鎌倉時代にはこの地に本拠地を構えており、薩摩の他に日向(ひゅうが/宮崎県)・大隅(おおすみ/鹿児島県東部)も領地としていました。しかし、豪族たちの割拠や領内の内紛などで日向と大隅を失っており、それらの回復を悲願としていたのです。

ただ、家久の祖父・忠良(ただよし)や父・貴久のころには再び力をつけており、薩摩の統一が達成されました。

そして、父の悲願は四人の息子たちに託されることとなるのです。

3人の兄たちとは母が違った

家久の上には3人の兄がいました。島津義久(しまづよしひさ)・義弘(よしひろ)・歳久(としひさ)です。すべてが武将としての才能に恵まれており、特に次兄の島津義弘は、今でも戦国最強の勇将としての称賛をほしいままにしています。

しかし、3人の兄と家久は、母が違いました。兄たちの母は正室でしたが、家久の母は身分の低い側室だったのです。母が違うことは、当時とすれば天と地ほどの差があることを意味していました。たとえ兄弟であっても、厳然たる待遇の差が存在していたのです。

長兄の言葉に発奮する

ある時、四兄弟は馬追を見る機会があり、そろって馬を眺めていました。すると、三番目の兄・歳久が口を開き、こう言ったのです。

「馬の毛色というのは母馬に似ていますね。きっと人間も同じことでしょう」

歳久の言葉には、母親がひとりだけ違う家久への当てこすりが暗に含まれていました。おそらく、歳久は唇をかみしめたことでしょう。しかし、言い返すことは許されるはずもありません。それを聞いた長兄・義久は、すぐに歳久の言わんとすることを察します。そして、そっと口を開きました。

「それはそうとも言い切れないな。父親の馬に似る馬もいるだろう。何より、人間は獣ではないのだから、徳というものを持っている。学問に励み、徳を積めば、父母よりも立派になることができるのだぞ。もちろん、怠ければ劣った人間になるわけだが」

さすが兄、といったところですよね。それとなく歳久をたしなめ、家久を庇ったのです。兄の言葉に深く感じ入った家久は、以後学問と武芸に励み、立派な武将へと成長するのでした。そして同時に、兄への揺るぎない忠誠も心に刻み込んだのです。

祖父の評価どおりの成長を見せる

ところで、四兄弟の祖父・忠良は、人物評を良くすることでも知られていました。彼は4人の孫たちそれぞれに人物評をしており、それは実に的確に彼らの資質を言い当てています。

家久に対し、忠良は「軍法戦術に妙を得たり」との評を与えました。そして、それが正確なものであったことは、以後の家久の戦歴を見れば明らかになるのです。

永禄4(1561)年、家久は15歳で初陣を飾りました。相手は大隅を支配していた肝付(きもつき)氏です。

ここで、家久は初陣ながらも敵将を討ち取るという大殊勲を挙げました。武将としてのキャリアを、実に素晴らしい戦績でスタートさせることになったのです。

島津氏大躍進の原動力となる活躍

image by PIXTA / 54343093

戦術にすぐれた家久は、次々と合戦で勝利を収めていきました。そして立ちはだかった目下最強の敵・龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)との戦いに挑むこととなりますが、敵の大軍は家久らの率いる兵の4倍以上。勝ち目はあるのでしょうか。しかし、家久の頭の中には、勝つための作戦のアイデアが次々と沸いてきていたのです。島津氏が編み出した必勝の戦術・「釣り野伏(つりのぶせ)」が歴史に名を刻む瞬間がやってきていました。

勝利を呼び込む鮮やかな戦術

永禄12(1569)年、島津氏は菱刈(ひしかり)氏のこもる大口城(おおくちじょう/鹿児島県伊佐市)を攻めにかかりました。

この時、家久は家臣に命じて伏兵を潜ませ、自分は荷物を運ぶ荷駄隊(にだたい)に変装し、300の兵を率いて出撃し、大口城の兵を誘い込んで見事136もの首級を挙げてみせたのでした。

若くしてすでに立派な勇将となった家久。祖父の予言は見事に当たり、日本に来ていた宣教師ルイス・フロイスもまた、家久のことを「きわめて優秀なカピタン(武将)」「勇敢な戦士」と書き残しています。

次のページを読む
1 2 3
Share: