日本の歴史昭和

日本の再出発を決めた「サンフランシスコ平和条約」とは?詳しく解説

機会を活かした吉田首相の交渉

この再独立の機会を逃さずに、日本の独立を実現しようとしたのが総理の吉田茂でした。得意の外交分野では各国と交渉をおこない、日本の再独立のための平和条約について受諾させ、その結果、サンフランシスコ講和会議を実現させたのです。

吉田首相の独断で西側諸国のみとの交渉

吉田茂は、アメリカを中心とした西側の各国と交渉をおこない、アジアにおける日本の役割を訴え、日本の再独立を目指したのです。その際に、問題になったのは、日本の再軍備をさせないことと、それによってどのように東側諸国からの攻撃に備えるかということでした。

吉田茂は、朝鮮戦争が勃発すると、日本国内の治安を任されていたGHQが戦争に行き、居なくなった1950年8月に警察予備隊を創設し、国内での共産勢力を押さえることにします。

そして、同時に日本の安全保障をアメリカ軍に委託することを提案したのです。これによって、西側諸国との平和条約の交渉は成立しました。

しかし、日本国内では、西側諸国とだけ交渉して平和条約を結ぶことに対して、再び戦争に巻き込まれるのではないかという反対意見も出ていました。それでも、吉田茂は、反対意見を押し切って全権大使として西側諸国とだけ平和条約を結ぶことを決意し、サンフランシスコ会議に臨んだのです。

サンフランシスコ平和条約の調印と内容

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日本の戦後の再独立を話し合うサンフランシスコ講和会議は西側諸国50カ国とソ連が参加して実施されました。

日米安全保障条約の調印

吉田首相は西側諸国49ヵ国と平和条約の調印をおこない、国内事情のあったインドネシア以外の国で批准されたのです。そして、サンフランシスコ平和条約で西側主要国から再独立の承認を勝ち取った日本は、同時に日米安全保障条約もアメリカと結びます。翌年にこの条約は発効して、日本はGHQの中心となっていたアメリカ軍に対して国内の米軍基地の使用を認める協定が成立したのです。

海外の日本領土の放棄

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サンフランシスコ講和会議で、議題になったのは、日本の植民地となっていた朝鮮半島、台湾、太平洋の諸島群の放棄でした。日本は、それらを放棄しますが、問題はもともと日本の領土であった沖縄や小笠原諸島などの扱いです。これらは、アメリカ軍にとってもアジア防衛のために重要な地域であり、当面はアメリカの統治下に置かれることになります。

また、南樺太や国後島、択捉島などの北方領土はすでにソ連が終戦1週間前に参戦して占領していました。しかし、北方領土に関してはもともとの日本の領土であることから、沖縄などと同じ扱いになり、不明確な状態になってしまったのです。

アメリカは、戦時中のヤルタ会談で北方領土はソ連の領土と約束しており、強く反対しませんでした。しかし、後にはソ連は同じヤルタ会談で、東欧について共産化しない約束をしていたものの、約束に反したことから、北方領土についてはソ連の領有には反対しています。

サンフランシスコ平和条約の問題点

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サンフランシスコ平和条約は、日本の再独立のために不可欠ではあったものの、当初からアメリカに国土防衛を依存するため戦争に巻込まれる可能性が指摘され、反対もありました。また、東側諸国と平和条約を結ばないため、この点でも戦争の不安要素として指摘されています。

ソ連、東側諸国とは調印せず

ソ連や東欧諸国とは、平和条約を締結しないままになっていましたが、東欧諸国とは冷戦終結後、それぞれの国がソ連の支配から脱したことから国交が回復しています。また、中国とは平和条約は結んでいないものの、1972年に当時の田中角栄内閣時代に日中国交宣言を交わして国交を回復しました。ただ、ソ連及びその後継国家であるロシアとは北方領土問題がネックとなり、未だに平和条約を締結することが出来ていません。

アメリカの管理下にあった沖縄、小笠原はみなさんもよくご存知のようにすでに日本に返還されています。ただし、沖縄には現在も大規模な米軍基地が存在しており、住民に被害の及ぶ事故や事件が起きているのが、現状です。

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