室町時代戦国時代日本の歴史

戦国の世を駆け抜けた武田四天王たち~彼らの史跡もご紹介~

「甲斐の虎」こと、戦国最強を謳われた武田信玄。彼の率いる軍団は「風林火山」の軍旗のもと戦場を駆け抜け、最大7か国にも及ぶ範囲にまで版図を広げました。「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり 」の信玄の言葉通り、武田家のために命を投げうって戦った有能な家臣たちの存在があったからこその偉業でしょう。武田家臣の中でも「武田四天王」と呼ばれた4人の家臣たちの活躍は、後世の軍記物や講談などでも人気を博し、その悲劇的な最期とともに、現在でも歴史ファンにとってはヒーローそのものなのです。彼ら武田四天王の事績を解説、合わせてゆかりのある史跡などもご紹介できたら。と思います。

地味なれど知略に秀でた戦巧者【内藤昌秀】

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華々しい活躍をした武田四天王というイメージがありますが、内藤昌秀という人はどちらかというと目立たずに裏方に徹するような地味な人物だという印象を受けます。しかし、信玄からは非常に信頼され、信玄の弟信繁と並んで「副将格である」と評するなど、実は戦術と戦略に長けた智慧者だったようですね。

父の非業の死と、その後の流浪生活

一般的には【内藤昌豊】という名で有名な武将なのですが、正しくは【昌秀】と呼ぶのが正しいようです。当初から内藤姓であったわけではなく、武田氏家臣の工藤虎豊の次男として1522年に生まれました。当初の名前は工藤祐長と名乗っています。

信玄から5代前の頃、甲斐国は国内外の混乱からお家騒動が起こり、国主(守護)不在という緊急事態になりました。そこで再び武田氏が国主に収まるよう活躍したのが工藤氏だったのです。この頃から工藤一族は甲斐へ移り住み、武田氏家臣となりました。しかし信玄の父信虎の代に駿河出兵に反対したために勘気を蒙り、虎豊は手討ちにされてしまったのでした。

父を失った祐長たち一族は国外追放となり、甲斐を離れて関東を流浪することとなりました。富士山北麓の年代記「勝山記」には、信虎に追放された家族たちが伊豆の北条早雲(伊勢宗瑞)を頼ったと記されていますね。

武田家への復帰と箕輪城代就任

そんな中、関東を流浪していた祐長たちに朗報がもたらされました。信虎の嫡男晴信(後の信玄)がクーデターを起こし、父を追放して家督を継承したのです。晴信は流浪している工藤一族を憐れんで甲斐へ呼び戻し、祐長たちの元へ旧領地も返還したのでした。再び武田家臣となった祐長は50騎持ちの侍大将となり、名を昌秀と改め、そこからめきめきと頭角を現していくことに。晴信もまた昌秀の武将としての器量を見抜き、側近にまで取り立てたのでした。

1561年の川中島合戦で最も激しかった戦いでは、越後の上杉謙信を撤退させ、1566年には深志城(現在の松本城)城代に就任。さらに同年、西上野(現在の群馬県)へ出兵した際にも抜群の戦功を挙げて信玄から賞賛されます。その後、恩賞として断絶していた甲斐の名家「内藤氏」の継承を許され、内藤昌秀と名乗ったのもこの頃のことでした。

やがて西上野の箕輪城の城代となった昌秀は、新規に武田家召し抱えとなった西上野衆を取りまとめる役目を負い、武田氏の柱石としてなくてはならない存在となりました。また武田氏の主たる戦いに参加し、数えきれないほどの軍功を挙げているにも関わらず、一度たりとも信玄から感状(表彰状のようなもの)をもらったことがないとされていています。

「修理亮ほどの弓取りともなれば、常人を抜く働きがあってしかるべし。」

(昌秀ほどの有能な武将であれば、常人を抜くくらいの働きがあって当然のこと。そんな当然のことに対して感状の有無など問題ではない。)

と信玄は語ったそうです。それに対して昌秀はこう答えました。

「合戦は大将の采配によって決まるもので、個人の軍功など取るに足らぬ小さいことよ」

いずれにしても主従の信頼関係が伺えるエピソードですよね。

そして運命の長篠の戦いへ

やがて武田の神ともいえる存在だった信玄が亡くなり、家督を継承したのは武田勝頼でした。しかし当の勝頼の側近といえば、軍功もないくせに勝頼の威を借りて偉そうな態度を取る者ばかり。昌秀は憂慮し、だから代替わりの誓紙の提出を拒みました。勝頼を諫める意味もあったのでしょうね。しかし、そこで勝頼は前代未聞の行動に出ます。なんと家臣からではなく主君の勝頼自らが誓紙を昌秀宛てに出したのでした。これには昌秀も驚いたことでしょう。

その後も高天神城攻めなどで活躍した昌秀でしたが、いよいよ運命の長篠の戦いを迎えます。武田軍1万5千。対する織田徳川連合軍は2倍以上の兵力を持ち、戦略眼に優れた昌秀は、他の老臣たちとともに「潔く撤退か?さもなくば長期戦の構えを取るべし」と勝頼に献言しました。しかし、勝頼はそれを拒否。決戦を挑むことになりました。

昌秀の戦いぶりは凄まじく、織田徳川の軍勢を驚愕せしめましたが、三の柵まで突破したところでほとんどが戦死。昌秀自身も勝頼の撤退を見届けたあと、少しでも敵の追撃を食い止めるため踏みとどまります。最期は矢を全身に浴びてハリネズミのようになりながら討ち取られたそうです。

内藤昌秀ゆかりの史跡【箕輪城】

約500年前に長野氏によって築かれた西上野地域のシンボル的存在な城郭です。武田軍が何度も攻略しようとしては失敗を繰り返し、やっとの思いで攻め落とせた堅城でもありますね。内藤昌秀が城代となって統治し、関東の北条氏に対する最前線の城でもありました。

北条氏が滅亡したあと関東に徳川家康が入り、重臣の井伊直政が箕輪城へ入城。その後、高崎城が築城されて廃城となりますが、現在でも石垣や土塁、井戸などの遺構が良好に残り、2016年には城門が復元されて、戦国時代の雰囲気を今に伝えています。

【場所】群馬県高崎市箕郷町東明屋

【車でのアクセス】関越自動車道高崎IC、前橋ICから約30分。

【電車でのアクセス】JR高崎線高崎駅よりバス約35分。

敵を震え上がらせた赤備えの将【山県昌景】

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戦国最強を謳われた武田軍の中でも、赤い鎧兜に身を固めた精強部隊。それが山県昌景の率いる「赤備え」でした。深紅に染まった山県勢を見ただけで、敵は士気を阻喪したといいますから、その強さをうかがい知ることができるでしょう。

武田晴信の近習となり戦功を重ねる

1529年に生まれた山県昌景も当初は違う名前で、飯富(おぶ)源四郎といいました。兄の虎昌は、晴信の嫡男義信の養育係をしていて、その縁で晴信の近習になったといわれており、ちょっと遅めの24歳で初陣を果たしています。しかし彼の軍事的、政治的才能は若い頃から素晴らしく、晴信の父信虎時代から活躍していた板垣信方甘利虎泰などの第一世代が相次いで討ち死にすると、昌景たち第二世代が立身し、武田家の屋台骨を支えたのでした。

飛騨地方が不穏となり越後上杉の影響力が増してくると、武田氏は飛騨に介入して昌景ら武田軍を派遣しています。1559~1567年にかけて計5回にわたって昌景は軍を進めたといいますから、よほど上杉を排除したかったのでしょう。この進軍の途中、猿に導かれて温泉を発見し、全軍がそこで疲れを癒したという逸話が伝わっており、これが現在の平湯温泉の由来だとされているのですね。

中世の頃、甲州の武田家臣が攻め入ったとき、士卒が毒霧にやられ動けなくなった。
そのとき白い老猿が温泉に入り悪い足を治して跳び去った。これを見た者は競って霊泉に浴し、すっかり元気を取り戻した。この時以来、様々な病を持った多くの人が盛んに訪ねるようになった。

引用元 平湯温泉公式HPより

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