ヨーロッパの歴史

第二次世界大戦終結に向け開かれた「ヤルタ会談」とは?わかりやすく解説

第二次世界大戦もドイツの敗戦が見えてきた1945年2月に現在のクリミア半島のヤルタでアメリカ、イギリス、ソビエト連邦の首脳が集まって会議をおこなったのがヤルタ会談です。この会談で、ドイツ降伏後のヨーロッパや国際連合について話し合われるとともに、東洋の日本についても密約がかわされました。この第二次世界大戦後の世界について話し合われたヤルタ会談について解説します。

1945年2月におこなわれたヤルタ会談とは

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ヤルタ会談は、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線の行方が見えてきた1945年2月4日から11日にかけてクリミア半島の保養地ヤルタでおこなわれた会談です。アメリカ合衆国のルーズベルト大統領、イギリスのチャーチル首相、ソビエト連邦(ソ連)のスターリンが参加した首脳会談でした。参加国は3ヵ国と少なかったものの、1週間をかけて戦争後の、あるいは戦争を終わらせるための話し合いがおこなわれたのです。

期間が長かったのは、やはりヨーロッパ戦線の行方が見えただけに3ヵ国とも余裕があったのでしょう。

クリミア半島は、最近、ロシアがウクライナから領有権を奪って話題になったところですね。ロシア内では保養地として知られ、過去からロシア帝国とオスマン帝国などがクリミア戦争でその領有権をめぐって戦いが繰り広げられてきた地域です。

このヤルタ会談では、戦争後のヨーロッパや、まだ連合国との戦争で抵抗を続けていた日本との戦いなどの問題について話し合われました。

その詳細について見ていきましょう。

ヤルタのあったクリミア半島はどんなところ?

黒海に臨むリゾート地にあり、ロシア領となってからは、ロシア皇帝であったロマノフ家の離宮であったリヴァディア宮殿がありました。そこが会談の会場となりました。しかし、実際には事務レベルでの話し合いが1944年後半からおこなわれており、ヤルタ会談はその確認の場となったと言われています。

第二次世界大戦の終結と戦後に向けた会議

1945年に入るとソ連はドイツを撃退してポーランドを占領し、ドイツ国境に達していました。そのため、米英をはじめとしたヨーロッパ諸国は、ソ連が共産主義を拡散させて、資本主義の本質である個人の土地などの所有権を否定させることを恐れていたのです。したがって、ソ連の東ヨーロッパへの進出を抑える目的で首脳会談を設けたのがヤルタ会談でした。

欧米の大国はすでに戦争後の世界について話し合いをしており、国際連合についても設立が予定されていました。そのため、第二次世界大戦の終結に向けて連合国側で話し合われた会議は、ヤルタ会談前後にも、マルタ会談、ポツダム会談などがおこなわれているのです。

ヤルタ会談で話し合われたのは

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共産主義の拡散を恐れる米英と領土の拡大を目指すソ連の対立から、その妥協策がそれ以前から話し合われていました。その結果として、ヤルタ協定が結ばれたのです。しかし、会談では、協定に盛り込まれなかった密約がありました。

まず、ヤルタ協定に盛り込まれた内容を見てみましょう。

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