日本の歴史昭和

日本とアメリカの関係性を決定づけた「日米安保条約」を元予備校講師がわかりやすく解説

1951年9月8日、日本はサンフランシスコ平和条約に調印。独立への道筋を付けました。同じ日、吉田茂首相はもう一つの条約に調印しました。それが、日米安全保障条約(日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約)です。日米安全保障条約は冷戦における日本の立ち位置を決定し、日米同盟の基軸となりました。今回は、日米安全保障条約について、元予備校講師が分かりやすく解説します。

日米安保条約の背景

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第二次世界大戦後、日本はマッカーサーがトップを務める連合国軍総司令部(GHQ)の指導下に置かれました。当初、GHQは日本の民主化・非軍事化を徹底しようとします。しかし、アメリカとソ連の冷戦が激しくなると、日本をアメリカを盟主とする西側諸国の一員とするため、GHQの方針が大きく転換しました。日米安保条約の背景となったGHQの日本統治についてみてみましょう。

GHQによる日本の民主化・非軍事化

日本を占領したGHQは、旧日本軍の解体日本の民主化を推進します。1945年、マッカーサーは幣原喜重郎内閣に五大改革指令を出しました。その内容は、秘密警察の廃止や労働組合の結成奨励、婦人解放、教育の自由化、経済の民主化です。

幣原内閣はGHQの指令を具体化しました。まず、秘密警察の廃止にしたがって特別高等警察が廃止。婦人解放にそって女性の参政権が認められました。経済の民主化の代表は農地改革財閥解体です。地主に集中していた土地は小作人たちに安価に下げ渡され、戦前の日本を支えたが三井・三菱・住友・安田などの巨大財閥は細分化されました。

第二次世界大戦前の日本の仕組みである寄生地主や財閥が解体されたことで、日本の社会は大きく変化しました。

冷戦の激化

ソ連との協調を重視し、スターリンに対して妥協的だったフランクリン・ローズヴェルトが癌のため死去すると、副大統領のトルーマンが大統領に昇格します。トルーマンは、大統領になるや否や、ソ連に対して厳しい対応に転じました。

トルーマンがソ連に厳しい対応をしたのは、ソ連率いる東側陣営が急速に勢力を拡大したからです。トルーマンは、西側諸国を経済的に支援するマーシャル=プランを発表。さらにNATO(北大西洋条約機構)を設立し、東側との対決姿勢を強め、ソ連や社会主義勢力の封じ込めをはかりました。

一方、ソ連はコミンフォルム(共産党情報局)を設立し引き締めを図ります。1948年、マーシャル=プランの受け入れをめぐって内部対立していたチェコスロヴァキアでクーデタが勃発。社会主義政権ができました。アメリカは共産主義勢力の拡大に強い危機感を示します。

GHQの方針転換

1948年、アメリカの陸軍長官ロイヤルは「日本は共産主義の防壁」と演説しました。その背景にあったのは、中国大陸でおきていた国共内戦です。アメリカの支援する国民党の蒋介石は徐々に劣勢に追い込まれ、ソ連の支援を受けた毛沢東が中国の覇権を握りつつありました。

共産主義の拡大を防ぎたいアメリカは、対日占領方針を変更します。アメリカは日本の旧体制を徹底的に叩き壊すよりも、日本の政治を安定化させ、経済の復興を急ぐべきだと考えました。その上で、日本を自立させ西側諸国の一員として迎えようと考えます。

1947年1月31日、マッカーサーは官公庁の労働者による二・一ゼネスト計画の中止を命令しました。労働運動が拡大し、日本が社会主義化することを危惧したからです。翌年に出された政令201号で、官公庁の労働者はストライキの権利を失いました。

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