日米安保条約締結の経緯
1950年、朝鮮戦争が起きました。マッカーサーは日本に駐留していたアメリカ軍などを朝鮮半島に派遣します。マッカーサーは、日本政府に再軍備を要求しました。その狙いは、朝鮮戦争で米軍が日本から出払った後、日本自身に国を守らせようということです。そのためにも、アメリカはGHQによる占領を終わらせ、日本を独立させようと動きました。
朝鮮戦争と経済復興
1950年6月25日、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の指導者金日成は、朝鮮半島の統一を目指し、北緯38度線を越えて朝鮮半島南部の韓国(大韓民国)に攻め込みました。開戦3日で北朝鮮軍は韓国の首都ソウルを占領。その後も、後退する韓国軍を追撃し南東部の釜山に追い詰めます。
これに対し、アメリカはアメリカ軍主体の国連軍を編成。マッカーサーに反撃を命じました。マッカーサーは北朝鮮軍の背後にあたる仁川に上陸。不意を突かれた北朝鮮軍は中国国境まで潰走しました。勝利も間近と思われたその時、今度は中国軍が参戦。国連軍を38度線まで押し戻します。
日本は国連軍に対する物資供給基地となりました。それにより、日本経済は一気に復興します(朝鮮特需)。
アメリカが要求した再軍備
朝鮮戦争がはじまると、マッカーサーの指示で在日米軍は朝鮮半島に投入されました。1950年7月、マッカーサーは日本政府に対し、在日米軍基地や在日アメリカ人居留民の安全を守るため、警察予備隊を新設するよう指令します。
指令を受けた吉田茂首相は国会で審議しなくても法令として実行できる「ポツダム政令」の形で警察予備隊令を公布。定員75,000名の警察予備隊を編成しました。吉田首相は、警察予備隊は軍隊ではないとして再軍備を否定します。
警察予備隊は、その後組織を改編。1952年に定員11万人からなる保安隊・警備隊になります。さらに1954年、防衛庁法と自衛隊法を公布し、定員15万名弱の陸上・海上・航空の各自衛隊を編成しました。現在、自衛隊は25万人の定員でフランス・イギリス・ドイツを上回る規模です。
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単独講和か、それとも全面講和か、平和条約をめぐる国内対立
日本を共産主義拡防ぐ防壁としたいアメリカは、日本の独立を急ぎました。アメリカが独立を急いだ理由は、日本を西側陣営の一員としたいと考えたからです。吉田はアメリカにも弱みがある今こそ、良い条件で独立するチャンスだと考えました。
一方、日本国内では平和条約をめぐって二つの主張が対立します。一つは、全交戦国と平和条約を結ぶべきとする全面講和論。もう一つは、冷戦状態の現在、全面講和は非現実的。だから、アメリカを中心とする西側とだけでも講和するべきだという単独(多数)講和論。
吉田首相は一刻も早く独立することが最優先であり、全面講和は非現実的だと主張しました。最終的に、吉田は単独講和を選択。ソ連との講和は結ばれず、西側諸国とのみ講和しました。
日本の独立と日米安保条約の締結
1951年9月、アメリカのサンフランシスコで対日講和について話し合うサンフランシスコ平和会議が開かれ、サンフランシスコ平和条約が締結されました。
サンフランシスコ平和条約では、日本と連合国の戦争終結や日本の朝鮮、台湾、澎湖諸島、千島列島、南樺太の放棄、沖縄と小笠原諸島がアメリカの施政権下に入ることなどが決まります。独立後、日本から占領軍が撤退することも決まりました。
サンフランシスコ平和条約調印後、吉田はもう一つの条約に署名・調印します。それが、日米安全保障条約でした。条約で、日本は引き続き米軍の駐留を認め、必要に応じて基地施設使用を継続します。米軍駐留の目的は「極東における国際の平和と安全の維持に寄与」するためとされ、日本の防衛に寄与すると定められました。同時に日米地位協定も締結します。
日米安保条約締結後の動き
サンフランシスコ平和条約の締結と日米安保条約の締結は、日本がアメリカを盟主とする西側諸国の一員になったことをはっきりと示しました。吉田茂が結んだ最初の日米安保条約は期限が不明確でアメリカに日本防衛義務がないなど、問題点もあります。そこで、岸信介首相は安保条約の改定を目指しました。ところが、国内では新安保条約の締結に反対する60年安保闘争が勃発します。