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どうして毛沢東は独裁者となってしまったのか?毛沢東の生涯について解説!

今では中華人民共和国の建国の父とも言われている毛沢東。彼は分裂していた中国を再び一つの国にまとめ上げた業績がある一方で、大量の国民を餓死に追い込んでしまった独裁者の二つの面を持ち合わせていました。 今回はそんな毛沢東についてその生涯を解説していきたいと思います。

毛沢東が社会主義に出会うまで

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毛沢東は1893年湖南省のとある村の5人兄弟の三男として生まれました。ちなみに、長男と次男なはやくして亡くなっていたため、事実上の長男として毛沢東は育っていくこととなります。

毛沢東の父親は一代で地主に成り上がったこともあり毛沢東に対して勉強をするように奨励。農作業に従事しながら本を読んだり勉強をしたりする人材として育つこととなりました。

そんな毛沢東でしたが、彼は1913年に湖南省の師範学校に入学。そこにてアダムスミスモンテスキューなどの社会科学者の本を読んで徐々に社会の構造について考えていくようになります。

そうしているうちに毛沢東は1918年に師範学校を卒業。恩師とともに北京政府の首都が置かれていた北京へと向かい、その地にて図書館員として働くようになりました。そんな中ついに彼が生涯を捧げる思想に出会ってしまいます。そうそれこそが共産主義だったのです。

毛沢東は1919年に故郷に帰り、歴史教師となるかたわら、本などを発行する出版社として名を馳せ、ある程度の収入を手に入れていたがその後1921年に毛沢東は第一回中国共産党全国代表大会に出席。中国共産党の結党した1人として参加することとなったのです。

第一次国共内戦

こうして中国共産党は成立しましたが、今でこそ8700万人いる党員ですが、この時は僅か87名。とても中国の覇権を確立する政党とは思えませんが1923年にはソ連の仲介もあって当時辛亥革命を起こしていた中国国民党と合作するという動きがとられ、毛沢東は国民党の中央宣伝部の部長の代行として活躍していきます。

しかし、国民党の指導者であった孫文が1924年に亡くなるとその跡を継いだ蒋介石はこれまでの方針をガラッと変えて中国共産党との対立関係を構築。1927年の上海クーデターによって国共合作は崩壊し、8月7日で開かれた八七会議では武力によって政権を打ち立てるという目標を提案。武力によって国民党と対峙していこうとする案が可決されました。その後毛沢東は武力蜂起に打って出ますがこれは失敗。最終的には江西省にある井崗山にこもりこの地を革命の根拠地として生かしていこうとしていきます。

中華ソビエト共和国の樹立と長征

井崗山にこもった毛沢東ら中国共産党の幹部たちですが、毛沢東はこの地を中心として中華ソビエト共和国を樹立。この地付近の農村を支配下に置いて農民に対して土地の再分配を行うなどして支持を得ていきます。

しかし、それでも中国共産党は蒋介石率いる中国国民党と戦争している最中。執拗な攻撃にさらされている中、毛沢東はソビエト連邦の影響を受けた留学組に批判されて一時的に失脚。一応の立場は保持したものの、権力はありませんでした。

しかし、1934年についに攻撃に耐えられなくなってしまった中国共産党は井崗山を脱出して北になんとかして逃れるいわゆる長征を開始。10月に出発した一行は冬の山を乗り越えて2万5000里の道のりをなんとか踏破。最初は8万人いたのが最終的に8000人に落ち込むという壊滅的な被害を出してしまいましたが、それでも中国共産党は延安に逃れることに成功したのです。

その一方で毛沢東は長征をしている最中に開かれた遵義会議にてソビエト連邦の影響を受けた留学生組を批判。失脚に追い込んでこの会議によって毛沢東は中国共産党のリーダーの地位を確固たるものとしたのでした。

第二次国共合作と日中戦争

こうして延安に逃げ延びた中国共産党でしたが、1936年にに奉天軍閥の張作霖の息子である張学良が蒋介石を拉致して無理矢理中国共産党と手を結ばせるように仕向けた西安事件が勃発。これもソ連の仲介があって国民党と第二次国共合作を構築。

翌年に起こった日中戦争では毛沢東率いる紅軍は国民党の八路軍として改めて組織され、日中戦争をともに戦うのですが、毛沢東はまともに戦っても日本には勝てることができないことはよく知っており、逆に日本に協力することも行なっていました。

毛沢東は「7割は勢力拡大、2割は現状維持、1割で日本と戦う」という指令を出して日中戦争のどさくさに紛れで地道に勢力を拡大していったのです。さらに毛沢東は1942年から整風運動として反毛沢東派を次々と粛清。党の支配を確固たるものとして中華人民共和国の土台を築き上げていきました。

第二次国共内戦

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By Orihara1投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, Link

こうして日中戦争は進んでいきましたが、その末期である1945年。中国国民党は憲政を開始してその主導権は国民党が握ると表明します。しかし、中国共産党は面白くない。毛沢東は第七回党大会において国民党との対立関係を組んでいくようになり、8月13日には国民党との戦争準備を行うという指令も出していきます。

しかし、その裏では重慶にて蒋介石と会談を行い、各党の平等性と国民党の下での中華統一に関する案に賛成するなど協調姿勢を取っていきました。

どう転んでも中国共産党の特な形にしていく工作を行なっていきましたが、よりにもよって調印したその日に中国共産党軍と国民党軍の間でいざこざが発生。緊張状態が高まったまま元々脆かった国共合作はついに崩壊。第二次国共内戦が始まってしまったのです。

当初国共内戦は国民党の有利に進んでいきましたが、共産党には後ろ盾にソ連がついており、また日本が放棄した満州の地を獲得したことによって準備万端。三大戦役と呼ばれる三つの一大決戦に全て勝利したことが決定打となり中国共産党の優位は確定。49年には北京が陥落してさらに南京も占領。蒋介石は成都が落ちた時に台湾に逃れることとなりましたが、この結果中国共産党は1949年10月1日北京の天安門に立って中華人民共和国の建国を宣言。ついに中華統一を成し遂げたのでした。

ソ連との関係悪化と大躍進政策

こうして毛沢東は中華人民共和国を成立させて同国の最高指導者として君臨することになりましたが、政務の方はというとお世辞にも良いものとはいえないものでした。

最初の方はソ連と密接な関係を築いていましたが、1958年にスターリンが亡くなると中国はアメリカと仲を良くしようとしていることに反発して中ソ対立が開始。中国はこれによって孤立化してしまいました。

さらに毛沢東は政策面でもとんでもないことをやらかしてしまいます。当時内戦の混乱からようやく抜け出そうとしていた中国の経済に対して毛沢東はスターリンが成し遂げた五カ年計画を参考にして15年でイギリスを追い越そうとする大躍進政策を開始。

しかし、その内容はお粗末そのものでありなんと中国の暴力的な人口を生かしてありとあらゆる鉄をかき集めて鉄を生産するというとんでもない製鉄を全国に命令。さらにソ連との仲が悪くなったこともありソ連の援助も受けれないというオプションも付いていました。

もちろん質の方は全然良くなく、6割が使い物にもならないくず鉄だったようです。さらに農業の方は人民公社という協同組合を設立させるのですが、かえって農民の意欲を失ってしまい、そのずさんな計画と無謀なノルマに国民は耐えられなくなっていました。

極め付けには毛沢東は「雀は害鳥だから駆除しなさい」という農業をしている人からすればありえない命令を出してしまいそれが原因でイナゴによる一大凶作が起こると農作物の生産量が大暴落。

一説には4000万人というおぞましい餓死者を叩き出してしまいその責任を追及され毛沢東は失脚に追い込まれてしまいました。

文化大革命と毛沢東の死

こうして失脚した毛沢東。その後の中国は鄧小平や劉少奇などの実務派によって混乱から徐々に回復させていくのですが、これが面白くないのが毛沢東と毛沢東の側近。

特に毛沢東と仲が良かった林彪は1964年に『毛沢東語録』を出版。これを受けて毛沢東は再び権力奪取を目論むようになります。

毛沢東はこの頃過激となっていた紅衛兵を利用して妻の江青とともに劉少奇と鄧小平を反革命的だとして批判。この2人を失脚に追い込んで劉少奇に至っては軟禁に追い込みました。

こうして劉少奇と鄧小平を排除した毛沢東は再び権力を確立。林彪や妻であった江青を中心とした四人組と共に新しい国家を建設していくことになったのです。

文化大革命は毛沢東が止められないぐらいにまで暴走。中国全土を大混乱に陥れてしまい最終的には中国の文化を破壊し尽くして中国の発展を阻害する結果となりました。

その後毛沢東は1976年に死去。晩節を汚しまくった最期でした。

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