平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての朝廷
平安時代の末期、藤原氏から政権を取り戻したい白河天皇は、在位2年で退位し、上皇として権勢をふるいます。上皇が院で政治を行う院政の始まりでした。その一方、関東では源頼朝が作った鎌倉幕府の力が増大。承久の乱で鎌倉幕府が勝利することで、朝廷よりも幕府が優位だということがはっきりしました。
院政の開始
平安時代の中期以降、藤原氏が政治の実権を握っていました。藤原氏は、天皇に自分の娘を嫁がせ、生まれた子供を天皇として即させます。その後、藤原氏は天皇にかわって政治を行いました(摂関政治)。
白河天皇の父、後三条天皇は藤原氏の娘から生まれた天皇ではありませんでした。したがって、藤原氏の影響を受けにくい立場で政治を行うことできます。
1069年、後三条天皇は延久の荘園整理令を断行。ルールに従わない、申請に不備があるなどの荘園を認めないとする厳しい内容でした。これまで、あいまいに認められてきた摂関家をはじめとする大貴族たちの荘園も対象となり、彼らに経済的打撃を与えます。
後三条天皇の次に天皇となった白河天皇は、1086年に堀河天皇に譲位。自分は上皇となって、堀河天皇の政治を後見しました。以後、摂関家にかわって上皇(院)が政治の中心となります。
また、退位などにより複数の上皇が出現することもあったため、最高権力を持っている上皇を、特に、治天の君といいました。最高権力者となった院のもとには、全国各地から土地が寄進されます。これにより、院は日本でも最大級の荘園領主となりました。
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平氏政権と鎌倉幕府の成立
院政成立からおよそ100年後、日本では、武士たちの存在感がぐっと強まってきました。1156年の保元の乱や1159年の平治の乱で、武士たちは欠かすことができない戦力となります。
1167年、保元の乱・平治の乱における勝利の立役者、平清盛が太政大臣に任命されました。清盛を筆頭とする平氏は、「平氏にあらずんば人にあらず」とさえ言われるほどの権力を手にします。これに危機感を覚えた後白河法皇の皇子以仁王は、反平氏の兵をあげました。
以仁王の命令書に呼応して木曽義仲をはじめとする反平氏勢力が動き出します。源氏の嫡流である源頼朝も関東で挙兵しました。その後、頼朝は西国の平氏や東北の奥州藤原氏を平定。征夷大将軍に任じられ、鎌倉に幕府を開きました。
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