日本の歴史昭和

今さら聞けない日本と中国の大喧嘩である日中戦争について解説!

今でも度々問題となる日中関係。この両国の関係は元々は普通なものでした。でも日本がちょっと戦前にいろいろやらかしたおかげで今に続く微妙な関係へと変わっていったのです。 今回はそんな日本と中国の関係を変えていった日中戦争について見ていきましょう。

日中戦争までのあらすじ

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日中戦争が始まったのは1937年7月7日の盧溝橋事件からと言われていますが、この戦争は盧溝橋事件が起こる前からのいざこざがあり最終的に爆発して起こった戦争だったのです。

日本による中国の利益拡大

明治維新を成し遂げ近代国家となった大日本帝国。日本は1894年の日清戦争や1904年の日露戦争によって大陸における権益をどんどん拡大。1910年には韓国を併合して大陸の足がかりを手に入れました。しかし、手に入れたものはさらに欲しくなるもの。日本はいつしか朝鮮だけでは飽き足らず、当時辛亥革命によって国内情勢が混乱していた中国に介入する動きが出てきます。特にその中でも日露戦争によって中国から租借した関東州を守っている関東軍は中国特に関東州にほど近い満州(中国東北部)の利益を得るのに必死だったのです。

そして、そんな中国の利益を欲しかった関東軍が最初に起こしたのが1928年の張作霖爆殺事件でした。当時中国には軍閥と呼ばれる中国の地方を治めている地方の実力者が各地でばっこしており、その中でも張作霖は満州を治めている奉天軍閥のリーダーだったのです。

そのため関東軍はこの張作霖を爆殺してそのまま満州を確保しようと計画し、そのまま実行に移したというわけだったのでした。しかし、この作戦はうまくいくことはなく失敗。返って張作霖の息子である張学良という人が反日勢力の重鎮となり、日本をこれから苦しめていくのでした。

柳条湖事件による満州事変の勃発

さてさてどんどんきな臭くなっていく日中関係。しかし、関東軍はこんな事気にせずに次のプランを計画していきます。そして張作霖爆殺事件から3年後。1931年9月18日、当時日本が管轄していた満州の鉄道であった南満州鉄道が何者かによって爆破。関東軍はこれを中国軍の仕業を決めつけて一気に南満州を占領しました。さらに日本の暴走はここに留まらずさらに満州北部も占領。日本は1932年に親日派の中国の政治家を利用して大清帝国最後の皇帝愛新覚羅溥儀をトップとした満州国を建国し、中国から切り離したのでした。これがいわゆる満州事変という事件です。

もちろんこれは中国からしたらたまったもんじゃありません。中国は即座に国際連盟に提訴。国際連盟は最初は中国よりも日本についた方がお得と思いこれを突っぱねていましたが、どんどん日本が暴走していくのを見てついに重い腰を上げ、イギリスのリットン卿を満州に派遣。いわゆるリットン調査団が調査を行い「満州事変は日本の仕業によるもので満州国は認められない」というふうに断定しました。しかし、ここで日本と国際連盟の態度の違いが現れていきこれが日本の最大の誤算となってしまいます。というのも国際連盟は満州国という国は否定したものの、日本が満州で持っていた権益はそのままにし、日本に有利な条件も付いていたのでした。しかし、日本はあくまでも満州国という傀儡国家を満州に作ることが日本にとって良い唯一の選択と関東軍は勝手に判断してしまったのです。こうして日本は満州国を認めない国際連盟を脱退。日本は世界から孤立してしまいました。

1935年の日中関係

満州国を建国し、さらには常任理事国だった国際連盟から脱退したことによって国際的に孤立してしまった日本。しかし、日本はさらに中国の利益を奪い取ろうと次は北京周辺の地域の権益を奪おうと計画していきます。

まず、1月に中国のトップ蒋介石と日本の首相広田弘毅が講和。さらに梅津・何応欽協定を結び河北省から中国国民党の勢力を排除しました。さらに6月には土肥原・秦徳純協定を締結。内蒙古のチャハル省を日本の勢力下に置いたのでした。

こうして北京周辺の地域を手に入れた日本は11月河北省に冀東防共自治政府を設立。親日政権を樹立させ中国の利益をさらに拡大したのでした。

1936年の日中関係

どんどん中国を侵略していく日本でしたが、2月26日首都東京でとんでもない事件が起きます。そうみなさんご存知2.26事件です。この事件によって穏健派であった政治家が暗殺。日本は一気に軍国主義化していきました。こうなると日本の中国に対する考え方はどんどん強硬化していきます。日本は中国において日本人の殺害事件が多いという建前を使い、中国に駐留する軍人を増量。中国と日本は戦争一歩手前というところまでついになってしまったのでした。

こうなると中国も黙っては入られませんが、中国国内では日本に対応するだけの力はありませんでした。実は中国では張作霖爆殺事件の頃に蒋介石によって中国大陸は統一されたのですが、その一方で中国共産党という共産主義を掲げる政党が一気に勢力を拡大していったのでした。

さらによりにもよって蒋介石は共産党嫌い。蒋介石の名言に「日本の侵略は軽い皮膚病だが、共産党は思い心臓疾患。どうにかしなければならない」という言葉を残すほど共産党を倒すことにこだわっていました。

しかし、このままでは中国は日本によって侵略されて国民党・共産党が共倒れしてしまうかもしれません。なんとかしなければならないのですが、ここで立ち上がったのがかつて関東軍によって父を爆殺された張学良でした。

張学良は頑なに共産党との講和をしない蒋介石を西安に監禁。西安事件と呼ばれる拉致監禁事件を起こしてまで蒋介石を説得します。結局、蒋介石は共産党との講和を受け入れることに合意。中国における国民党と共産党の内戦は終結し、日本に対して強硬的になった抗日民族統一戦線を立ち上げついに日本との対決に向かっていくことになるのです。こうして対決の準備が整った両国。そして時代は運命の1937年を迎えることになったのでした。

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