平安時代日本の歴史

非道?慈悲深かった?武士の礎を築いた「平清盛」の生涯をわかりやすく解説

『平家物語』で書かれている「平清盛(たいらのきよもり)」は極悪非道な人物ですが、殘る史料などでは慈悲深い人物だったという記述もあります。大河ドラマ『平清盛』でネットでは「海の底の住民」という「#平清盛クラスタ」というファンもうまれ、現在では復権もされてきていますよね。朝廷の犬といわれて蔑まれていた「武士」を一躍政治の表舞台にのし上げて、武家政権の「鎌倉幕府」から「江戸幕府」にいたるまでの礎を作った平清盛。その実像はどんな人だったのでしょうか?その生涯を追っていきましょう。

平家の嫡男としてうまれて

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藤原豪信 – 『天子摂関御影』(南北朝時代の絵巻。宮内庁三の丸尚蔵館所蔵)。, パブリック・ドメイン, リンクによる

平清盛は、平安時代後期の永久6年1月18日(1118)「伊勢平氏」の棟梁である「平忠盛」の長男として産まれました。伊勢平氏というのは「桓武天皇」の皇子である「高望王」の子孫で、「平安中期の「平将門」「藤原純友」が起こした反乱である「承平天慶の乱」で朝廷側について武功のあった「平貞盛」の四男「平維衡」を初代とする一族です。その中で特に六波羅流と呼ばれる「平正盛」の系統を「平家(へいけ)」と呼ぶそうですよ。平氏と平家は微妙に違うんですね。

平清盛には出生の謎があります

お父さんの平忠盛は北面の武士(朝廷を護る武士)として活躍して、伊勢平氏としてはじめて昇殿(内裏にあがること)を許された人でした。平清盛のお母さんは『平家物語』などでは白河法皇の寵姫だった「祇園女御」と書かれていたり、近江国胡宮神社に残る『仏舎利相承系図』では「祇園女御の妹」と書かれていたりして、白河法皇に仕えていた女性で平忠盛の奥さんになったという可能性は高いようですね。そのために「実は白河法皇の落胤(子供)」という説もありますよ。

あながち『平家物語』の祇園女御の子供というのも間違いでもなく、先にいった『仏舎利相承系図』によると祇園女御が他人の子供と親子関係になるという「嫡子」にしたという記述が残っています。そのために正室(元々正室がいたのか、母親が最初正室だったのかは不明)ではない平清盛を嫡男としたのは、祇園女御の後ろ盾があったからだといわれていますね。

10代で異例の出世

平清盛は大治4年(1129)12歳で、従五位下・左兵衛佐に叙任します。従五位下というのは貴族・殿上人(てんじょうびと)として認められる官位なので、右大臣の「藤原(中御門)宗忠」もビックリの当時では異例のことでした。

同じ年に石清水八幡宮の臨時祭の舞人にも選ばれています。その馬の口取りに、祇園女御の養子である三条天皇の孫にあたる右大臣の源有仁があたったというのですから、朝廷ではかなりのショックがあったと思いますね。そのために御落胤説が当時からあったようですよ。保延3年(1137)父の忠盛が熊野本宮を造営した功績によって、平清盛も肥後守に任ぜられます。

久安3年(1147)に、当時院政を行っていた「鳥羽上皇」のもとで「葉室顕頼」「藤原信西」と一緒に院庁の実務を担当していた「平時信」の娘である「時子」と結婚して「平宗盛」が産まれました(平清盛にはすでに2人の男子(早くして亡くなった「高階基章の娘」の間に「平重盛」「平基盛」)がいます)。

平清盛は、育ての母である平忠盛の正室である「池禅尼」従兄弟「藤原家成」の邸によく出入りしています。この藤原家成という人は「鳥羽上皇」のもとで経済的発展を遂げたという功績から第一の寵臣といわれる人です。

この藤原家成と平時信の関係もあってか、祇園社に参拝した時に神主たちと小競り合いとなって家来が放った矢が宝殿にあたるという「祇園闘乱事件」が起きた時に、処分を求めてきた比叡山(祇園社は末社)から鳥羽上皇が護ってくれて罰金ですみますよ。

武士の世を作る!

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? – 平治物語絵巻, パブリック・ドメイン, リンクによる

当時は「北面の武士」といわれる人たちがいました。北面の武士たちは都を護る「検非違使」に任命されることが増えていき、検非違使というのは「非違(不法、違法)を検察する天皇の使者」という役割で、警察や機動隊のような働きをしていますよ。そのため「朝廷の犬」と蔑まれ、これが成じて朝廷内の権力争いなどにも使われるようになり、親兄弟が互いに敵同士になっての殺し合いということになっていくのですね。平清盛はそういうことを終わらせようとしたのでした。

「保元(ほうげん)の乱」での平清盛-その1-

鳥羽上皇が崩御すると、権力争いがはじまりました。「崇徳上皇」「後白河天皇」の兄弟による実権争いです。その火種は、鳥羽上皇が息子の崇徳上皇を天皇にして上皇になったのですが、寵姫の産んだ「近衛天皇(鳥羽上皇が崩御する前に崩御)」を天皇にするために崇徳天皇を退位させたことからはじまっていますよ。それにそれぞれについていた藤原摂関家の「藤原忠通(ただみち)」と「藤原頼長(よりなが)」の兄弟の実権争いが結びついてしまいました。というのは実は表の話です。

実は「崇徳上皇と藤原頼長が兵を集めて反乱をたくらんでいる」と都中に噂を流したのは藤原信西だそうですよ。鳥羽上皇側近の藤原信西がなぜそんなことをしたのでしょうか?理由は実にシンプルで、自分が養育していた後白河天皇の地位を確立することだったのですね。実際に後白河天皇を即位させるのにも暗躍していたといいます。

保元元年(1156)後白河天皇は噂を聞き、藤原頼長に「兵を集めるのを禁止」「財産没収」という厳しい命令をしました。そのために窮地におちいった崇徳上皇と藤原頼長は挙兵するしかなくなってしまったのですね。

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紫蘭