南北朝時代室町時代日本の歴史

「姫路城」はどんな城?雑学とおすすめスポットを地元在住歴史系ライターが紹介

近頃何かと「お城関連番組」がテレビで放映されていますが、オープニングで必ずと言っていいほど登場するのが「ドローンで撮影された姫路城」だったりしますよね。平成30年には160万人近い入場者数があったらしいですから、まさに日本を代表するお城だといって良いのかも知れません。今回、その姫路城について解説させて頂くわけですが、細かい歴史だのといったことはすでに別の記事でも紹介されていますから割愛しますね。そこで!地元在住の筆者だからこそお伝えしたい姫路城にまつわる雑学や、ぜひご覧頂きたいおすすめスポットなどを紹介したいと思います。ぜひ活用してみて下さいね。

実はそうだったの?姫路城アレコレ【縄張り編】

image by PIXTA / 29386787

お城マニアでなくても楽しめる雑学の数々をご紹介していきましょう。無駄な知識から、明日仕える知識まで、知っておいて損はないかも知れませんね。

姫路城、実はめっちゃ広かった!

JR姫路駅から天守閣がすぐ見えますし、駅から北へ向かえば歩いて10分ほどでお城へ着いてしまいます。普通に見ていると姫路城の広さは「他のお城とさして変わらないよね~」という感じがするでしょう。もしかして天守閣などを含む有料観覧エリアだけがお城だと思ってる人も多いのでは?

実は有料観覧エリアを含む内曲輪をぐるりと囲むかのように、中曲輪というエリアが存在しています。現在は淳心学院高校や姫路医療センター、県立歴史博物館などが立ち並んでおり、あまり「城」という印象は薄いのですが、中曲輪もまた水堀に囲まれているのです。

試しに中曲輪の外側を巡っている水堀を見てみましょう。石垣ではなくて土塁(土で造った防壁)で出来ていて、それが延々と巡っています。築城時に姫山の土砂を切り崩し、余った土を持ってきて土塁にしたのでしょう。いかにも築城されたばかりの頃の風情が感じられる場所ですね。遺構が多く残るのは東側のエリアですが、南側は大正時代に国道2号線を通す際に内堀を埋められてしまいました。

中曲輪も相当広いのですが、姫路城の広さはそれだけではありません。現在は商業施設や住宅地などによって改変されてしまっていますが、さらに広い外曲輪というエリアまでありました。

東はJR播但線の京口駅のすぐ近く、北は姫路工業高校の付近、そして南はJR姫路駅のあたりにまで外曲輪が広がっていたそうです。面積でいえば東京ドームの50倍といいますから、姫路城の本当の姿はかなり広大なもの。

外曲輪を囲んだ外堀の痕跡が今でも確認できます。ちょうど姫路駅の近くにあるピオレ姫路やホテルモントレ姫路の東側あたりから水路が流れていて、北東方向へ延々と辿ると野里というところに達するのです。「外堀川」という名ですから、この水路が外堀だったということが分かりますね。

当時の姫路城は、武家屋敷や町人町をぐるりと取り囲む「総構え」という構造になっていました。堀や土塁が巡らされた城塞都市だったのです。

こういった構造の城は全国で見ることができます。小田原城、有岡城、江戸城もそうですね。京都などは豊臣秀吉の時代に、都ごと御土居という土壁で取り囲んでいました。

姫路城はらせん状の構造になっている

Burg Himeji Gesamtplan.jpg
Fraxinus2投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

姫路城の構造に関してとても珍しいことがあります。何重もの堀で囲まれた防御のしやすい構造になっていますが、実はらせん状に堀を造ってグルグルと巻き込んでいくような形になっているのです。

お城にある曲輪や堀の配置のことを専門用語で「縄張り」と呼びますが、姫路城の場合は「渦郭式縄張り」といいます。日本では姫路城江戸城にしかない構造だとされていますね。

これには2つの理由があって、お城を築城する際に完全に堀で仕切ってしまうと内曲輪まで資材を運ぶのが面倒です。運搬のための橋を掛けねばなりませんし、そのためのコストも掛かります。渦郭式にして地続きにしたほうが運搬しやすいといえるでしょう。

その逆も言えますね。らせん状の堀をどんどん外側へ広げていけば、その分の敷地が広くなっていき、町人町の拡張も容易だということ。江戸の町が大きく広がっていったのも同じ理由なのです。

そしてもう1つは防御面で有利だということ。敵が攻めてきてもらせん状にしか進撃できないため、ぐるぐる回らせた上で無防備な横合いから攻撃できますし、敵の列を伸び切らせて逆襲すれば容易に撃退できますね。

らせん状の縄張りに、平山城の利点を生かした高所からの攻撃、さらに広大な城郭都市とくれば、これはまさに難攻不落といっても良いでしょう。

姫路城唯一の弱点「野里」

Himejicity-nozato-nokogiriyokocho.jpg
Terumasa投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

町を丸ごと城郭とした総構えや、らせん状の曲輪、内堀と外堀を巡らした構造は姫路城の防御を鉄壁にしています。しかしそんな堅城にも弱点はありました。それが「野里(のざと)」という地区でした。

ちょうど姫路城の北東にあたり、実はこの地区で外堀が途切れてしまっているのです。もし敵が攻めてくれば、厳重な外堀を迂回して攻め込んでくることは明らかなこと。しかし、なぜこの地区まで堀を延長しなかったのでしょうか?

実はこの野里地区、姫路城が完成するずっと以前から鋳物師たちが住む町でした。鋳物師とは鉄を鋳溶かして様々なものを製造する職人のことです。現在でも鍛冶町、鍵町、金屋町といった地名がありますね。そして鋳物師たちの棟梁が芥田(あくた)五郎右衛門という人物でした。

元は守護赤松氏の家臣だった家柄ですが、次第に畿内の鋳物市場を独占。大坂の陣のきっかけとなった方広寺の梵鐘を造ったのも五郎右衛門だとされていますね。

それほど大きな力を持った芥田家でしたから、新しく姫路へやって来た池田輝政も「外堀を造るのに邪魔だから他所へ移れ!」とは言えなかったようです。さらに芥田家の先祖を辿ると、清和源氏新田氏の庶流世良田氏にあたります。どういうことかというと、いわば征夷大将軍徳川家康と先祖を同じくするということ。池田家としてはまったく手出しができなかったというところが真相でしょうね。

そういった経緯から野里に外堀が築かれることはありませんでした。しかし城の弱点はなんとか克服せねばなりません。そこで道路に対して斜めに家を建てることにしたのです。城の外側から攻めてくる敵から見れば死角だらけ。迎え撃つ守備側は死角の陰に隠れて攻撃を仕掛けるという作戦でした。

現在でも野里地区には「ノコギリ横丁」という場所があり、その痕跡を見ることができますね。芥田五郎右衛門邸も現存していますから、穴場的なスポットになっています。

実はそうだったの?姫路城アレコレ【城内編】

image by PIXTA / 12102795

次に姫路城内における雑学や逸話のアレコレを紹介したいと思います。参考になるかどうかはわかりませんが、実際に姫路城を訪れた際に見方が変わるかも知れませんね。

怪談でも何でもない?実はただの井戸だった「お菊井戸」

江戸時代の「番町皿屋敷」のモデルとなった「播州皿屋敷」にまつわるお菊井戸が二の丸にあります。まず播州皿屋敷の物語を紹介していきましょう。

 

今の姫路城が完成する100年前のこと、姫路城主小寺則職の家臣青山鉄山が主家乗っ取りを企んでいました。それを察知した衣笠元信という者が、お菊という女性を鉄山の家中に忍ばせて謀反の証拠を探ろうとしました。

すると主君則職を招いた宴会の席で毒殺しようとする企みを察知。知らせを受けた元信が乗り込んで事なきを得ました。

暗殺が失敗したことに腹を立てた鉄山は、家中に密告者がいるに違いないと、家来の町坪弾四郎に探らせ、どうやらお菊が関与していることがわかったのです。以前からお菊のことを気に入っていた弾四郎は「俺の妾になれ」と言い寄りますが、お菊に拒否されてしまいます。

横恋慕をした上に拒否された弾四郎は、宴でお菊が用意するはずだった小寺家家宝の「こもがえの具足皿」のうち1枚を隠してしまい、お菊がなくしたと疑われるように仕向けたのです。

鉄山はお菊を厳しく責め、弾四郎の屋敷に預かりとなったのですが、この時ばかりと再びお菊に思いを伝えた弾四郎。またもやお菊に拒否されてしまいました。腹いせに弾四郎は怒りに任せて散々暴力をふるい、あげくにお菊を井戸に投げ込んで殺してしまったのです。それ以来、井戸の底からお菊が皿を数える悲し気な声が聞こえたといいます。

やがて則職と元信らは軍勢を催して姫路城を奪還し、鉄山と弾四郎は討たれました。お菊のことを哀れに思った則職は、その霊を弔うために姫路の十二所神社の境内に社を建て、「お菊大明神」として祀ったそうです。

 

以上の話は江戸時代後期に「播州皿屋敷実録」として創作されたものだそうで、確かに神戸市西区あたりに衣笠氏という武将もいましたし、姫路の英賀城付近には町坪弾四郎という武将も実在していました。

しかし江戸時代にこの井戸は釣瓶取井戸(つるべとりいど)と呼ばれており、お菊井戸という呼び名は大正時代以降に一般的になったそうです。

また、お菊が吊るされたという梅雨の松という木が登場するのですが、1762年に編纂された「播磨鑑」の中にはお菊との関連が何一つ触れられていないのですね。

お菊が祀られているという通称「お菊神社」については、幕末期に姫路藩士だった福本勇次が書いた「村翁夜話集」の中で、「是ハ近年祭リヨシ」と記述があるため、おそらく江戸時代後期に建立されたものと思われます。

江戸時代に創作された「播州皿屋敷実録」を読んだ民衆たちが、この話を実話だと勘違いしてしまい、しまいにお菊を祀る神社までできてしまった。というのが真相ですね。だからお菊井戸も「ただの井戸」に過ぎないわけですね。

姫路城のホラースポット?「腹切丸」

姫路城天守閣から見て東の端に「帯曲輪櫓(おびぐるわやぐら)」という建物がありますが、その下にあるトンネルのような門をくぐると通称「腹切丸」があります。

武士が切腹するために、いかにもちょうど良いくらいの広さがあり、斬った首を洗うためでしょうか。井戸まで存在しているじゃないですか!そう考えるとおどろおどろしい姫路城随一のホラースポットの感じがしてきますよね。

しかし、この場所で切腹したという事実も記録もありません。たしかに考えてみれば、お城のど真ん中で切腹など聞いたこともないですし、一般的には罪人として預けれらた屋敷の庭先や牢屋の中で切腹は行われるべきもの。いったいなぜ腹切丸という名称が付けられたのでしょうか?

実は大正年間に姫路城が姫路市に払い下げられたところ、一般公開に先立って「何か名所や名物はないだろうか?」という話になったそうです。「じゃあいかにもお城のエピソードらしく、ここで武士たちが腹を切っていたってことにしてみては?ちょうど奥まった暗い感じのとこだし、井戸もあるし。」といった経緯があったそうなのですね。

最近ではボランティアガイドの方たちも「腹切丸」とは言わなくなったそうで、正しくは井戸曲輪と呼ぶとのこと。

次のページを読む
1 2
Share:
明石則実