南北朝時代室町時代日本の歴史

持明院統・北朝と皇位を争った「大覚寺統・南朝」を元予備校講師がわかりやすく解説

承久の乱

頼朝が作った鎌倉幕府は、頼朝の子である頼家や実朝が相次いで死んだことにより混乱していました。「いまこそ、鎌倉幕府打倒のチャンス!」と考えた後鳥羽上皇は、鎌倉幕府を取り仕切る2代執権北条義時の討伐を命じます。これにより、承久の乱が始まりました。

後鳥羽上皇は、「北条義時や、それに味方する者は謀反人である」と考え、追討の院宣(院の命令書)があれば、あっという間に、朝廷が勝利できると確信していました。

ところが、実際に戦いが始まると、鎌倉幕府軍の団結は全く揺るがず、一致団結して鎌倉幕府を守ろうとします。特に、頼朝夫人だった北条政子は、頼朝の恩は海よりも深く、山よりも高いと御家人たちに訴えました。政子の訴えや、自分たちの地位を守る必要性などから、御家人たちは鎌倉幕府を支えると決断。後鳥羽上皇は、隠岐島に流されました

二つに分かれた皇統

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鎌倉時代の中頃、四条天皇が12歳の若さで亡くなったため、後嵯峨天皇が即位します。後嵯峨天皇が死去した時、朝廷の指導者である治天の君を誰が継ぐべきかについて遺言しませんでした。そのため、後深草天皇の血統である持明院統と、亀山天皇の血統である大覚寺統が皇位をめぐって争うようになります。

後嵯峨天皇の即位と幕府による治天の君の裁定

承久の乱後、後鳥羽上皇は隠岐へ、土御門上皇は土佐へ、順徳上皇は佐渡へ流されました。承久の乱当時の天皇だった仲恭天皇は廃位され、後堀河天皇が即位します。1234年に後堀河天皇が死去すると、四条天皇が即位しました。

1242年、思わぬことが起きます。四条天皇がわずか12歳でこの世を去りました。四条天皇には、あとを継ぐべき皇子がいなかったので、誰が皇位を継ぐべきか議論されます。結局、幕府の支持を得た土御門上皇の子の後嵯峨天皇が即位しました。

1246年、後嵯峨天皇は退位。後深草天皇が即位しました。朝廷の政治は治天の君である後嵯峨上皇が行います。1259年、後嵯峨上皇は後深草天皇に退位を促し、後深草天皇の弟である亀山天皇を即位させました。

1272年、治天の君である後嵯峨上皇が亡くなります。遺言は財産分与などについて書かれているのみで、治天の君の決定は幕府に委ねました。指名がなかったため、後深草上皇と亀山天皇が治天の君をめぐって争いになります。幕府は亀山天皇を治天の君としました

持明院統と大覚寺統の争いと両統迭立のルール

後嵯峨上皇の死後、皇統は二つに分かれました。一つは、後深草上皇の血統である持明院統。もう一つは亀山天皇の血統である大覚寺統です。

後嵯峨上皇は財産分与で、後深草上皇に長講堂領とよばれる荘園群を与えました。亀山天皇は八条院領とよばれる荘園群を手に入れます。財政的基盤を得た持明院統と大覚寺統は、皇位や治天の君の座をめぐって争いました。

持明院統と大覚寺統の争いは、1274年に亀山天皇が後宇多天皇に譲位した際にも発生します。承久の乱以後、朝廷の争いに介入するのが常となっていた鎌倉幕府は、後宇多天皇の次は、持明院統から天皇を出し、後深草上皇を治天の君とすると約束しました。

以後、持明院統と大覚寺統は交互に皇位に就くことでバランスを保ちます。持明院統の伏見天皇。伏見天皇の後は、大覚寺統の後二条天皇に。後二条天皇のあとは、持明院統の花園天皇が即位しました。

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