日本海軍は、なぜ「武蔵」という巨大戦艦を造ったのか?
武蔵は全長263メートル、排水量6万5千トンという当時としては世界最大の戦艦でした。しかしなぜ小国の日本が、これだけの大戦艦を建造する必要性があったのか?まずはその謎を解明していきましょう。そこには島国であるがゆえの戦略が見え隠れするのです。
第一次世界大戦後、アメリカが仮想敵国に
日本は明治維新以来、対外政策を中国大陸中心に考えていましたが、第一次世界大戦が終結し、ヨーロッパ諸国に代わってアメリカが世界のイニシアティブを握るようになると、第一の仮想敵国をアメリカと定めました。
もっともアメリカ側にとっても、日本の海軍力は脅威であり、オレンジ計画に代表されるような戦争計画を極秘で策定していました。太平洋の主権を握るための戦いは、すでにこの頃から始まっていたのかも知れません。
資源がない島国の日本にとっては、中国大陸の権益を独占することにより、来たるべき日米決戦のための後方基地を確保するという思惑すらあったのです。
アメリカはそうした日本の動きを警戒したため、1922年にイギリスを巻き込んでロンドン軍縮条約を開催しました。艦艇保有数を制限し、軍事費を削減していこうとする動きに日本も同調します。この頃から日本海軍の軍備の考え方も「量より質」という方針に転換し、兵器の質と、兵員の技量の差でアメリカに対抗しようとする動きが見られるようになりました。
この考えがのちに、艦上戦闘機「零戦」や戦艦武蔵を誕生させる遠因となったのです。
オレンジ計画
1920~30年代に立案されたアメリカの対日戦争計画。
ハワイを要塞化し、海軍力の拠点とすることで西太平洋の制海権を握り、日本側の拠点を潰しながら日本本土へ向かうという作戦でした。
のちの太平洋戦争では、まさにこの計画通りに飛び石作戦が行われ、アメリカ軍は日本本土へ近づいていったのです。
艦隊決戦構想を練る日本海軍。そして武蔵の誕生へ
満州国設立をはじめとして、日本が大陸での権益を強化するにしたがい、ますます世界からの風当たりも強くなっていました。日本は1933年に国際連盟を脱退、1936年に軍縮条約からも脱退するに及び、世界的な建艦競争が始まったのでした。
日本側は「マル3計画」と呼ばれる建艦計画を練り、実行に移します。これは大和型といった巨大戦艦をはじめとして空母や補助艦艇を大量に建造することにより、明らかに対米戦を意識した陣容を整えるためのものでした。
第一次世界大戦で得た委任統治領であるマリアナ諸島(サイパンやグアムなど)を要塞化し、ここにアメリカ艦隊を引き込んで艦隊決戦を挑み、勝利した暁には絶対的有利な講和を結ぶという構想がありました。
そのためには、巨砲を持つ戦艦で決定的勝利を収める必要性があったため、大和と武蔵という二隻の巨大戦艦の建造が計画されたのです。圧倒的な戦艦の数を持つアメリカ艦隊に対して、あくまで質で勝負しようというわけですね。
のちの真珠湾攻撃で、攻撃隊がアメリカ戦艦を狙ったのも、そこに理由がありました。一隻でも多くのアメリカ戦艦の数を減らすこと。それが目的だったのです。
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