教養歴史

第3代征夷大将軍「源実朝」揺れる鎌倉幕府、悲劇の将軍の人生とは?

鎌倉幕府第3代征夷大将軍、源実朝(みなもとの さねとも)。かの源頼朝(みなもとの よりとも)を父に、北条政子を母に持ち、武家政権のトップとして君臨したと聞くとゴツいイメージですが、彼は「百人一首」にも選ばれた前代未聞の和歌の達人、京風の雅を愛し、聡明な若者でした。12歳で征夷大将軍となり、26歳(満28歳)で甥に暗殺された悲劇の人。一体どんな人生を送った人なのでしょう?

鎌倉幕府と源氏将軍家の成立を振り返り

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源平合戦は、源氏の棟梁・源頼朝の主導によって、木曽義仲、頼朝の末弟・源義経などのヒーローが活躍した哀れ深い合戦でした。さてその後鎌倉幕府はどうなったのでしょう?仲が悪い源氏や北条氏、比企氏に和田氏……殺伐血みどろの関係を繰り広げる、鎌倉時代の歴史。武士の世のはじまりから第3代将軍である実朝の将軍就任までを振り返りましょう。

源頼朝がひらいた鎌倉幕府

源頼朝が超クールでスマートに、遠流先の東国のド田舎から一歩も出ずに事実上の実験を握ったのが、1192年。平家の怒りに触れて30歳過ぎるまで一介の流人だったおっさんが、地方豪族・北条氏の娘を妻にし、東国の武人たちをまとめて実権を得ました。源頼朝は稀代の天才政治家で、そのあざやかさは後に徳川家康がリスペクトしたほど。

彼はすべてを得るのではなく、朝廷と天皇家を立てておいた上で実権だけゲットするという、あざやかな手並みを見せました。「なんかカッコよくて威厳があってそれっぽい」称号・征夷大将軍を天皇から拝命。後宮政治でダイレクトに天皇家に影響するのではなく、名よりも実を取る。戦はからきしダメな分、戦争の天才である弟の義経を活用して、要らなくなったら捨てる。日本史に類を見ない見事さでした。

鎌倉幕府の初代征夷大将軍として、堂々と東国の地に君臨した頼朝。彼は北条政子を正妻として、5人(伝承の千鶴丸を含めると6人)の子がいました。正妻の政子との間にのちの2代将軍・頼家、そして3代将軍となる実朝という2人の男子も設けます。そんな中で頼朝はふとした落馬がもとで体調を崩し、唐突に亡くなりました。偉大な政治家、満51歳でのことです。

第2代将軍は源頼朝の長男坊・頼家

頼朝の死後、将軍家の地位についたのは、頼朝と政子の長男・頼家(よりいえ)です。実朝のお兄ちゃんですね。当時、第2代征夷大将軍になった頼家は18歳の青年。源頼朝の嫡男として期待を一身に背負ってのスタートでした。

しかし彼は若いというのに独断的な政治を展開。その様子はときに独裁的とさえ言われます。頼家を支えたのは、乳母父である比企能員を中心とする、比企(ひき)氏。その台頭に危機感を覚えた北条氏は、頼家の祖父である北条時政の主導で比企氏を一網打尽にします。「比企能員の変」です。

頼家の独裁が目障りであった北条氏を中心として「十三人の合議制」が敷かれます。そして最終的に彼は将軍の座を追放されてしまいました。無念の頼家は修善寺温泉で暗殺されます。母方の親族である北条氏によって手は下されました。とにかく源氏は仲が悪い――日本史の中でもこの時期の殺伐度はMAXレベルです。若き将軍に暗殺命令を出したのは、他ならぬ母親の北条政子だと言われています。

「尼御台」北条政子って?

ここで、北条政子という人をどう捉えればいいのかわからなくなります。我が子・頼家への暗殺命令を下したのは母の政子とは現在も濃厚な説です。自分の家族、それもわが子を殺すなどというのは、まさに毒婦と呼ばれても仕方ありません。それでは何が彼女の原動力となるのか?

要するに彼女は「家」と「政権」を守りたかったのでしょう。現代の我々には想像もできないくらい、血族や血脈というものに対し忠実だったのです。のちに承久の乱で、後鳥羽上皇に対抗して京都に攻め上り勢力を拡大するにあたり、絶大なカリスマ性を発揮しました。

高貴な武将の正妻を「御台所(みだいどころ)」と呼びます。夫の死後、出家して尼となった彼女は「尼御台(あまみだい)」と人から言われるようになりました。「尼将軍」として采配を振るうようになったのは承久の乱以後。まだ実朝が政治の舞台にいる間は、彼女もそっとしていましたが……。

源実朝が征夷大将軍になるまで

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実朝の幼名は、千幡(せんまん)。彼は1192(建久3)年12月6日、鎌倉幕府が成立した年の、冬のさなかに北条政子を母にこの世に生をうけました。父の征夷大将軍・頼朝は赤子の彼を御家人たちの腕に一人一人抱かせ、「意をひとつにして将軍を守護せよ」と激励。まさに生まれながらの将軍だったわけです。彼がその父と兄の後を継承して征夷大将軍として立つまでにも、暗殺や反乱の連続でした。千幡少年は一体どうなるのでしょうか。

実朝をとりまくキーパーソンの3人って?

さて彼の人生をながめる上で重要な3人の人物を紹介しましょう。1人目は、北条義時。母・北条政子の弟で実朝の叔父さんにあたります。この人はまた「究極の朝敵」だのなんだの、『吾妻鏡』などの歴史書で散々な言われよう。それもそのはず、彼は後年に鎌倉幕府の事実上の最高指導者として立ち、天皇を廃して上皇を3人も流罪にするという前代未聞のことまでやらかしたのでした。それは実朝の治世の後ですが、非常なやり手の政治家だったことは確実です。

2人目は大江広元(おおえ の ひろもと)。もとは朝廷の臣下でした。下級官吏だった彼は鎌倉に下って源頼朝の側近となります。野暮で野蛮で朝廷での儀礼や機微にイマイチ疎くなりがちな、東国の侍たち。そんな中でこの人が鎌倉幕府と京都朝廷のパイプ役を果たしました。鎌倉幕府のナンバーツーです。

そして3人目は、旧臣・和田義盛。父・頼朝が打倒平家のために挙兵した時以来、大活躍してきたこの古い功臣を、実朝はとても愛しました。頼家将軍時代には、宿老として「十三人の合議制」に参画。実朝が政権を得てからは、若き将軍に手厚い待遇を受けます。このことが後に悲劇を生むのですが……。

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