文保の和談と後醍醐天皇の即位
両統迭立が定められた後も、持明院統と大覚寺統の争いは続きました。争いを続ける両統に対し、鎌倉幕府は使者を派遣。話し合いで解決するよう促します。
幕府は、花園天皇(持明院統)の譲位と後醍醐天皇(大覚寺統)の即位を提案しました。その際、後醍醐天皇の在位は10年。後二条天皇の子(邦良親王:大覚寺統)を、後醍醐天皇の皇太子とすること。邦良親王の次の天皇は持明院統とすることなどを提案します。
これらのうち、花園天皇の譲位と後醍醐天皇の即位が実現しました。両統による一応の妥協を文保の和談といいます。
後醍醐天皇の即位後、治天の君となったのは後醍醐天皇の父である後宇多上皇でした。後宇多上皇の本音は邦良親王の即位にあり、後醍醐天皇は中継ぎと考えられていたようです。
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南北朝の争乱
朝廷内で中継ぎと考えられていた後醍醐天皇は、両統迭立など鎌倉幕府による干渉をはねのけたいと考えます。そのためには、幕府を倒さなければいけません。後醍醐天皇は二度の失敗と隠岐流刑を乗り越え、鎌倉幕府を打倒しました。しかし、建武の新政が短期間で失敗すると、後醍醐天皇は吉野に脱出。南北朝時代が始まりました。
後醍醐天皇の討幕運動
1318年、文保の和談にもとづき後醍醐天皇が即位しました。即位してから数年間は後宇多上皇が院政をおこないます。1321年、後宇多上皇は院政を停止。後醍醐天皇による親政が始まりました。
後醍醐天皇は鎌倉幕府による調停への干渉を止めさせるには、幕府を滅ぼすしかないと考えます。1324年、後醍醐天皇は側近と共に討幕を計画しました。しかし、事前に計画が漏れて失敗します(正中の変)。1331年、後醍醐天皇は再び倒幕を計画しますが、これも失敗。後醍醐天皇は捕らえられました。(元弘の変)。
鎌倉幕府は後醍醐天皇を廃して持明院統の光厳天皇を即位させます。1333年、後醍醐天皇は隠岐を脱出。またもや幕府に戦いを挑みます。幕府は足利高氏らを派遣して後醍醐天皇と戦わせようとしました。
ところが、足利高氏は後醍醐天皇に帰順。鎌倉幕府を裏切り六波羅探題を攻撃します。同時に新田義貞が鎌倉を攻め、執権北条氏の一族が滅ぼされ、鎌倉幕府が滅亡しました。
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建武の新政
鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇は、京都に帰還します。鎌倉幕府が擁立した光厳天皇を廃し、幕府や摂政・関白も廃止しました。また、後醍醐天皇は年号を建武とします。そのため、後醍醐天皇の政治を建武の新政といいました。
後醍醐天皇は全ての権力を自分のもとに集中させ、天皇の権威を高めようとします。と同時に、土地裁判なども天皇の命令書である綸旨がなければ無効としました。
鎌倉時代から室町時代の人々(特に武士)にとって最重要だったのが土地裁判。そのため、後醍醐天皇の下には全国各地から土地裁判が持ち込まれました。後醍醐天皇の裁判は、鎌倉時代の前例をしばしば無視したため、武士たちは不満を持ちます。
武士たちの不満の受け皿となったのが足利尊氏(高氏)でした。足利尊氏は、朝廷軍に勝利し京都を占領。後醍醐天皇は比叡山に脱出しました。
南北朝の成立
比叡山に逃れた後醍醐天皇は抵抗を続けますが、三種の神器の引き渡しを条件に足利尊氏と和睦します。尊氏は光厳上皇の子で、持明院統の光明天皇を即位させました。尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任じられ、朝敵の烙印を押されるのを回避します。
一方、後醍醐天皇は幽閉先の花山院を脱出。奈良県の吉野に移りました。後醍醐天皇は尊氏に渡した三種の神器は偽物で、正統の皇位継承者は自分であると主張します。
後醍醐天皇が正当性を主張したことで、日本に北朝・持明院統の光明天皇と、南朝・大覚寺統の後醍醐天皇が並立する事態が訪れました。そのため、この時代のことを南北朝時代といいます。
1339年、後醍醐天皇が亡くなると大覚寺統の皇位は後村上天皇に受け継がれました。以後、南朝は長慶天皇・後亀山天皇と皇位を継承します。他方、北朝は崇光天皇・後光厳天皇・後円融天皇・後小松天皇に皇位継承されました。
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