- 高杉晋作の作った奇兵隊とはどのような集団だったのか?
- 武士が戦争専門の集団になった背景
- かつては大名の兵士(武士)は半農半士が当たり前
- 戦争専門の武士集団を作ったのは織田信長だった
- 武士が戦争のための特権階級になったのは江戸時代
- 高杉晋作の奇兵隊は反幕府派の希望の星になった
- 吉田松陰門下生が中心だった反幕府・攘夷派と高杉晋作への影響
- 奇兵隊の実現までの背景
- 攘夷の決行、下関戦争での敗北
- 高杉晋作による奇兵隊の編成
- 蛤御門の変に負けた長州の政変と苦境
- 第1次長州征伐で反幕府派は窮地に
- 苦境の反幕府派を立て直した高杉晋作の奇兵隊
- 創始者の高杉晋作は病状の悪化で奇兵隊を率いることはできなかった
- 奇兵隊の存在意義と長州藩の変化
- 長州藩内の情勢を転換させた奇兵隊
- 高杉晋作の奇策が炸裂した第2次長州征伐
- 奇兵隊は戊辰戦争にも参加
- 明治時代に生きた奇兵隊の発想_山県有朋の徴兵制度に生きる
- 常識にとらわれない高杉晋作の発想力から生まれた奇兵隊に学ぼう
この記事の目次
高杉晋作の作った奇兵隊とはどのような集団だったのか?
image by iStockphoto
1863年の長州藩に生まれた高杉晋作の作った奇兵隊は、武士だけではなく、町民、百姓などの人たちも参加を認めた兵士集団でした。それまでの江戸時代には、刀を持ち、戦(いくさ)で戦う兵士は武士だけと考えられていたのです。それだけに当時は斬新な兵隊といえました。江戸時代には「士農工商」といわれるように、身分が分けられ、刀の帯刀を許されたのは武士だけで、庶民を守るために戦う特権階級が武士層だったのです。
しかし、この奇兵隊は、明治時代になって、西郷隆盛が「明六の変」で多くの薩摩藩士を連れて下野したあと、それを補うために山県有朋が設けた徴兵制度に生かされます。それだけに奇兵隊によって大日本帝国陸軍が生まれたともいえるのです。奇兵隊は江戸幕府を滅亡させた戊辰戦争でも活躍していました。山県有朋は高杉のあとを継いで奇兵隊を率いていたのです。
こちらの記事もおすすめ
幕末の革命児!高杉晋作は長州藩屈指の切れ者だった? – Rinto~凛と~
武士が戦争専門の集団になった背景
image by iStockphoto
長州において農民、町民などの庶民が奇兵隊として戦争に参加するようになって人々を驚かせましたが、それはけっして初めてのことではありませんでした。江戸時代末期の日本では戦いをするのは武士に限られていましたが、武士に限られるようになったのは戦国時代末期以降です。
武士が戦争の専門集団になった過程を見てみましょう。
かつては大名の兵士(武士)は半農半士が当たり前
戦国時代末期までの日本では、ほとんどの武士は半農半士でした。すなわち、普段は農作業をしていざ戦いになると鍬を刀に持ち代えて戦(いくさ)に参加していたのです。そのため、戦国時代までの戦いは農繁期に限られていました。
それは戦国大名として有名な武田信玄や上杉謙信などの武士たちも同じでした。
それは、もともと武士が平安貴族の荘園で農民のなかでも腕っぷしの強い連中や中心的な人物を用心棒や荘園管理人(地頭)として用いたことから始まっていたからです。彼らは、次第に力を蓄えて武士層となり、鎌倉時代になると貴族の荘園を奪って大名とその家臣として武士集団を形成していきました。
こちらの記事もおすすめ
甲斐の虎、武田信玄の生涯をわかりやすく解説! – Rinto~凛と~
戦争専門の武士集団を作ったのは織田信長だった
image by iStockphoto
そのような武士の体質を変えたのは織田信長でした。彼は、武士たちを農村から切り離して戦争の専門集団として再編成し、それによっていつでも戦いのできる武士団を作ったのです。そして信長は天下を取ろうとしていました。
ほかの大名たちは農閑期にならなければ、戦争を出来なかったのに対して、信長はいつでも戦闘をできるため、強かったのです。
そして信長の戦闘専門集団は、後継者になった豊臣秀吉、徳川家康にも引き継がれ、江戸時代には武士層は戦闘専門集団として特権階級になったのでした。
こちらの記事もおすすめ
異端の戦国武将織田信長!革新性と厳しさの天下布武の結果はいかに? – Rinto~凛と~