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高杉晋作が作った「奇兵隊」とは?長州を生き返らせたこの軍をわかりやすく解説

幕末に、長州藩が攘夷派による下関戦争で4ヵ国艦隊に敗れ、息を吹き返した親幕府派によって攘夷派の掃討作戦が始まったときに反幕府派にあらわれたのが奇兵隊でした。この奇兵隊は、かつて高杉晋作が武士だけでなく、農民、町民などの庶民の参加によって作った混成軍だったのです。この奇兵隊がどのようにして生まれ、貢献したのかについて解説します。

高杉晋作の作った奇兵隊とはどのような集団だったのか?

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1863年の長州藩に生まれた高杉晋作の作った奇兵隊は、武士だけではなく、町民、百姓などの人たちも参加を認めた兵士集団でした。それまでの江戸時代には、刀を持ち、戦(いくさ)で戦う兵士は武士だけと考えられていたのです。それだけに当時は斬新な兵隊といえました。江戸時代には「士農工商」といわれるように、身分が分けられ、刀の帯刀を許されたのは武士だけで、庶民を守るために戦う特権階級が武士層だったのです。

しかし、この奇兵隊は、明治時代になって、西郷隆盛が「明六の変」で多くの薩摩藩士を連れて下野したあと、それを補うために山県有朋が設けた徴兵制度に生かされます。それだけに奇兵隊によって大日本帝国陸軍が生まれたともいえるのです。奇兵隊は江戸幕府を滅亡させた戊辰戦争でも活躍していました。山県有朋は高杉のあとを継いで奇兵隊を率いていたのです。

武士が戦争専門の集団になった背景

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長州において農民、町民などの庶民が奇兵隊として戦争に参加するようになって人々を驚かせましたが、それはけっして初めてのことではありませんでした。江戸時代末期の日本では戦いをするのは武士に限られていましたが、武士に限られるようになったのは戦国時代末期以降です。

武士が戦争の専門集団になった過程を見てみましょう。

かつては大名の兵士(武士)は半農半士が当たり前

戦国時代末期までの日本では、ほとんどの武士は半農半士でした。すなわち、普段は農作業をしていざ戦いになると鍬を刀に持ち代えて戦(いくさ)に参加していたのです。そのため、戦国時代までの戦いは農繁期に限られていました。

それは戦国大名として有名な武田信玄や上杉謙信などの武士たちも同じでした。

それは、もともと武士が平安貴族の荘園で農民のなかでも腕っぷしの強い連中や中心的な人物を用心棒や荘園管理人(地頭)として用いたことから始まっていたからです。彼らは、次第に力を蓄えて武士層となり、鎌倉時代になると貴族の荘園を奪って大名とその家臣として武士集団を形成していきました。

戦争専門の武士集団を作ったのは織田信長だった

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そのような武士の体質を変えたのは織田信長でした。彼は、武士たちを農村から切り離して戦争の専門集団として再編成し、それによっていつでも戦いのできる武士団を作ったのです。そして信長は天下を取ろうとしていました。

ほかの大名たちは農閑期にならなければ、戦争を出来なかったのに対して、信長はいつでも戦闘をできるため、強かったのです。

そして信長の戦闘専門集団は、後継者になった豊臣秀吉、徳川家康にも引き継がれ、江戸時代には武士層は戦闘専門集団として特権階級になったのでした。

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