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高杉晋作が作った「奇兵隊」とは?長州を生き返らせたこの軍をわかりやすく解説

高杉晋作による奇兵隊の編成

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高杉晋作は、1863年の下関での外国船に対する砲撃の後に、外国船の反撃に備えて下関に派遣されました。そこでは、反幕府派の武士たちが京都に行っていたため、兵士が不足していたのです。そこで兵士不足を補うために晋作が発案して組織されたのが、奇兵隊でした。藩士である武士以外の町民、農民も含んだ部隊が編成されたのです。

そのころ、高杉晋作は体を壊していたこともあり、父 の命令で上京せずに下関で療養をかねて下関にいました。下関で攘夷を決行した長州藩は諸外国船の反撃を恐れて、下関の防備を強化する必要に迫られ、下関にいた晋作を起用したのです。そこで、松陰門下で反幕府の気持ちの強かった晋作は、身分の差にこだわらなかった師匠の吉田松陰にならって奇兵隊を立ち上げたといえます。兵士不足が深刻になっていたなかで、武士に限らず志を持つ人々を集めて戦闘組織としての奇兵隊を思い付き、部隊を編成したのでした。

蛤御門の変に負けた長州の政変と苦境

下関戦争当時、長州藩の過激派たちは、京都で幕府の京都守護職の会津藩と薩摩藩に追い払われたことから、同じ8月20日に京都に攻め上がりましたが、敗北してしまいます。久坂玄瑞をはじめとした多くの若手藩士(反幕府派)を失ったのです。これを蛤御門(はまぐりごもん)の変といいます。同時に、下関戦争と蛤御門の変での敗北の責任を問われた反幕府派は退陣を余儀なくされ、政変が起こったのです。その結果、親幕府派は、藩内の反幕府派の追討を命じました。そのため、反幕府派は苦境に陥ったのです。

第1次長州征伐で反幕府派は窮地に

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そして、蛤御門の変に怒った幕府は長州征伐に乗り出します。第1次長州征伐は長州が京都を追い落とされてすぐの1864年8月24日から始まりました。この段階で長州藩内の反幕府派は一掃され、親幕府派は幕府に降伏して、反幕府派の3家老を切腹させて幕府に差し出し、幕府への忠誠を誓ったのです。その結果、残っていた反幕府派の藩士たちは窮地に追い込まれました。

苦境の反幕府派を立て直した高杉晋作の奇兵隊

そのころ、高杉晋作が編成した奇兵隊は、まだ下関にいました。それまで大した戦争もなく、活躍の場はなかったのです。その話を聞きつけて高杉晋作の奇兵隊のもとには多くの反幕府派の武士たちが集まってきました。そして、奇兵隊を中心とした反幕府派は、討伐に来た親幕府派に対抗し、逆に圧倒することになったのです。

創始者の高杉晋作は病状の悪化で奇兵隊を率いることはできなかった

しかし、奇兵隊を実際に率いたのは高杉晋作ではありませんでした。晋作はそのとき、病(やまい)が悪化して、指揮を松下村塾の後輩であった山県有朋に託したのです。それが、明治時代の山県有朋の出世の足掛かりになりました。

奇兵隊の存在意義と長州藩の変化

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高杉晋作が作った奇兵隊は、当時の長州藩の反幕府派を勢いづけ、その後の長州藩が目指すべき方向を明確にしたといえます。すなわち、攘夷から倒幕に目標は変わったのです。それを可能にさせたのが奇兵隊でした。

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