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高杉晋作が作った「奇兵隊」とは?長州を生き返らせたこの軍をわかりやすく解説

武士が戦争のための特権階級になったのは江戸時代

そのため、江戸時代には、武士層は身分制度でも「士農工商」のなかで最上位に立ち、特権階級となりました。しかし、平和な江戸時代には戦争そのものがなく、次第に武士は藩の政治集団になってしまったのです。したがって、幕末でも勤王派、開国派、攘夷派といっても当初は武士に限られていました。

高杉晋作の奇兵隊は反幕府派の希望の星になった

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そのような状況のなかで高杉晋作が編成した奇兵隊には、町民、農民などが含まれていたので、周囲の反幕府派たちは驚いて「奇兵隊」と名付けたのです。当時、反幕府派は多くの人たちが蛤御門の変の敗北で亡くなったり、捕らえられたりしていました。そのため、親幕府派からの追求が厳しく、反撃する余裕がなかったのです。その前年に高杉晋作によって作られた奇兵隊は、それまであまり戦う機会はありませんでした。しかし、長州藩で反幕府派の追討が起こると、反幕府派にとっては親幕府派への反撃の切り札となったのです

吉田松陰門下生が中心だった反幕府・攘夷派と高杉晋作への影響

長州藩の反幕府派には、吉田松陰の松下村塾の門下生が多くいました。松陰自身が攘夷を唱えていたことや、松陰が幕府によって処刑されていたため、幕府に対して反感を持った人たちが中心になっていたからです。

しかも、松陰の松下村塾では、身分に関わらず、受け入れていたことが、久坂玄瑞と筆頭弟子を争った高杉晋作に奇兵隊の発想を与えたといえました。

奇兵隊の実現までの背景

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長州藩では、天下分け目の関ヶ原の戦いで負けて領地を大幅に削られて以来、藩内には親幕府派と反幕府派が生まれ、藩内ではそれぞれの派閥が競って交代で藩の実権を握っていました。そのため、奇兵隊が生まれる幕末には、長州藩ではさまざまな紆余曲折があったのです。その過程を見ていきましょう。

攘夷の決行、下関戦争での敗北

幕末でも、長州藩では派閥争いがありましたが、1863年当時は反幕府・攘夷派が実権を握り、攘夷の実行がおこなわれました。下関(馬漢)海峡を通るイギリス、アメリカなどの外国船に対して砲撃をおこなったのです。これに怒ったイギリス、アメリカ、フランス、オランダの4ヵ国は翌1864年8月5日から7日にかけて馬漢海峡から長州藩に対して強力な砲撃をおこないました。これがいわゆる4ヵ国艦隊の攻撃で、前年の長州藩からの砲撃も含めて下関戦争といわれています。これによって長州藩では大きな打撃を受けることになったのです。

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