日本の歴史飛鳥時代

「摂政」と「関白」の違いとは?わかりやすく解説!実は現代も摂政は置ける!?

中学校の歴史の授業で「摂関政治」ということばをならったと思います。これは、天皇が幼いときは摂政が、天皇が成人した後は関白が天皇を補佐して行う政治と説明されていましたね。もっとも有名な人物として藤原道長やその子の頼通を教わったと思います。実は、今でも摂政を置くことができることはご存知でしたか?今回は、知っているようでいて意外と知らない摂政と関白の違いについてご紹介します。

摂政~天皇代理として年少の天皇や女性を補佐する役職~

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天皇や皇室についての様々な事柄を扱う宮内省。

宮内省のHPには摂政は「皇室典範の定めるところにより置く」「天皇が成年に達しないときは、摂政を置く。また、天皇が、精神・身体の重患が重大な事故により、国事行為をみずからすることができないときは、皇室会議の議により、摂政を置く」とされています。

そもそも、摂政はどんないきさつで置かれた役職・地位なのでしょうか。

摂政設置の背景 その1 不安定だった大和政権の大王(オオキミ)の座

摂政が置かれる少し前、古墳時代の大王(天皇のこと)の地位は非常に不安定でした。5世紀から6世紀にかけて、奈良盆地の豪族たちを中心に大王をトップとする大和政権が成立。豪族は血縁関係ごとでまとまり職務を分担しました。これを氏姓制度といいます。

氏姓制度では有力な豪族の家系に生まれると自動的に高い地位に就くことができました。生まれによって地位が決まってしまうため、たとえ大王が自分の望む人物や有能な人をとりたてようとしても不可能だったのです。

それどころか、有力豪族が大王や王族を殺すことさえありました。また、大王が直接支配する土地はそれほど多くありません。他の豪族を圧倒するほどの力を持たない大王の地位はその名前ほどには安定しておらず、大王となった人は豪族のコントロールに苦心することになります。

摂政設置の背景 その2 強力な豪族、蘇我氏の存在

大和政権で最も強大な力を持ったのが蘇我氏でした。蘇我氏は、大伴氏や物部氏などとともに大和政権で重要な地位である大臣(おおおみ)の職についていた豪族です。

仏教伝来をめぐって蘇我氏と物部氏は激しく争います。そして、ついに蘇我氏と物部氏は戦になりました。のちに聖徳太子とよばれる厩戸王は蘇我氏に味方します。戦いは蘇我氏の勝利に終わりました。

物部氏を滅ぼした蘇我馬子は向かうところ敵なしの状態。天皇には蘇我氏の影響力を強く及ぼせる崇峻天皇を即位させました。ところが、崇峻天皇が自らの意に背き始めると馬子は崇峻天皇を暗殺。そんなことをしても、馬子を抑えることができる人物は誰一人としていません。

馬子が次の天皇に推薦したのが、敏達天皇の妃だった炊屋姫(かしきやひめ)、のちの推古天皇です。彼女は叔父にあたる蘇我馬子を制御する秘策を練っていました。

摂政設置のきっかけ~推古天皇の即位と聖徳太子の摂政就任~

蘇我馬子の姪にあたる炊屋姫は、おじの馬子のやり方を熟知していたはずです。能力は高いが剛腕。かつ、逆らうものはためらいなく排除する。1対1で渡り合うのは不安だったでしょう。

皇族の中で自分を補佐できる人間はいないだろうか。そう考えた彼女にとって有力な候補者がいました。それが厩戸王、のちに聖徳太子と呼ばれる人物です。炊屋姫は即位して推古天皇となり、聖徳太子を天皇代理として政治を行う摂政に任じました。

こうして、豪族の代表である蘇我馬子が大臣、皇族の代表である聖徳太子が摂政となって推古天皇がそのバランスをとる体制が出来上がったのです。蘇我馬子からすれば推古天皇も聖徳太子も蘇我氏の血が入った人物。だからこそ、この妥協が成立したのでしょう。

人臣摂政、藤原良房の登場

時は流れて平安時代となりました。平安京に都を移した桓武天皇を補佐した功績で藤原冬嗣とその一族が勢力を増します。藤原氏は大化の改新で蘇我氏を滅ぼした藤原鎌足の子孫。天皇家と近い間柄にあった藤原氏は娘を天皇に嫁がせ、天皇家の親類となっていました。

平安時代に藤原氏の権力を決定的に高めたのが藤原良房でした。良房は橘氏や伴氏などを倒して権力を集中。文徳天皇が死去した時は9歳の清和天皇を即位させました。清和天皇は子供のころに良房の屋敷で育てられたことから良房を信任していたともいわれます。

そして、866年、清和天皇は良房を皇族以外では初となる摂政に任命しました。こうして今でも知られる「天皇が幼いときや女性の時は母方の親族である藤原氏が摂政として政治を行う」という形が出来上がったのです。

関白~成人後の天皇を補佐する役職~

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関白とは、成人となった天皇を補佐する役職で政治全般に関与しました。古代の憲法ともいうべき律令にはなかった官職なので令外官(りょうげのかん)といいます。安土桃山時代の豊臣秀吉・豊臣秀次を除いておよそ1000年にわたり藤原氏が独占した役職でした。関白とはどのような理由で置かれた役職だったのでしょう。

関白の語源と設置の背景

関白の語源は中国の故事です。漢の時代の有力者霍光(かくこう)が皇帝から政治の権限を与えられた時、皇帝の発言に「関(あずか)り白(もう)す」(関る、ぐらいに意味にとらえてください)とされたことに由来します。

関白は皇帝の発言に関わる、つまり、皇帝の意思決定の影響を与えるという意味で、かなり強い力だったことがうかがえますね。また、霍光は博陸侯という貴族に任命されていたので、関白のことを博陸ともいいます。

さて、藤原良房が摂政の地位について以降、藤原氏の力は他の追随を許さないものになっていました。しかし、天皇が成人してしまうと藤原氏は摂政で居続けることはできません。藤原氏が権力を独占するためには成人後も天皇を補佐する役職を設置する必要があったのです。良房の養子として藤原氏のトップに立った藤原基経は新たな地位の確立に動き出しました。

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