- 平安時代前期のキーワード:「遷都」「仏教文化の伝来」「摂関政治」
- 遷都:奈良時代末期は災難続き・都を京都に移して心機一転!
- 仏教文化の伝来:最澄と空海、唐に渡って仏教文化を伝える
- 摂関政治:天皇よりエラいぜ!藤原氏一強時代は吉と出るか
- 平安時代中期のキーワード:「国風文化」「藤原道長」「地方情勢」
- 国風文化:遣唐使を廃止して日本独自の文化の発展を
- 藤原道長:全ての権力を握りこの世の春を謳歌する藤原一族
- 地方情勢:天皇中心の国家体制の確立と地方政治の悪化
- 平安時代後期のキーワード:「荘園」「院政」「平家と源氏」
- 荘園:その農地は朝廷のもの?農民のもの?
- 院政:摂関政治の後に誕生した新しい権力の形
- 平家と源氏:武家政権の誕生と鎌倉幕府の誕生
- 貴族の「権力争い」から「地方の武士」の台頭へ:意外と激しかった平安時代
この記事の目次
平安時代前期のキーワード:「遷都」「仏教文化の伝来」「摂関政治」
平安時代とは、桓武天皇が京都(平安京)に都を移してから、平家が滅びて源氏による鎌倉幕府が成立するまでのおよそ400年間の時代を指しています。400年という長い時代を一気にたどることは難しそうなので、前半・中盤・後半の3段階に分けました。まずは前半から。奈良から都を移し、大きな変換期となったこの時代、どのような出来事が起きていたのでしょうか。
遷都:奈良時代末期は災難続き・都を京都に移して心機一転!
「平安」という名前には、平らかで安らかな都になるようにとの思いが込められているとか。平安京が中心となっていたということで、時代区分として「平安時代」と呼ばれるようになりました。都を移すことを「遷都(せんと)」といいます。
平安京に都を移す少し前の8世紀後半、奈良の都では朝廷内での勢力争いが激化し、秩序が乱れてしまっていました。さらに追い打ちをかけるように、天災や疫病が続きました。人々は災いを退けようと信仰にすがります。結果、有力な寺社の力が入り込み、天皇中心の社会に陰りが見え始めていたのです。
784年、この事態を収拾しようと、桓武天皇は遷都を決意。はじめは京都の長岡に都を築こうとします。しかし遷都の準備のさなかに担当者が暗殺されるというスキャンダルが発生してしまうのです。加えて桓武天皇に近しい人たちにも次々と不幸が訪れてしまいます。
桓武天皇は安寧を求めて、たった10年で長岡京をあきらめ、都を移すことを決意。長岡京から10㎞ほど北東に、平安京を築くことにしたのです。
場所は桂川と鴨川に挟まれた、現在も京都の中心地となっているあの位置。794年、以後1200年以上も続く京都の都がこの時誕生したのです。
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仏教文化の伝来:最澄と空海、唐に渡って仏教文化を伝える
平安京のまちづくりは、中国(当時は唐王朝)の都・長安をお手本にしたと伝わっています。この頃の中国大陸は、文化・学問・技術などありとあらゆる最先端のものが集まっていました。そしてもちろん、仏教も。人々を救い導いてくれる仏の教えを学ぶことができる、あこがれの地でもあったのです。
そんな中国大陸に、日本は何度も使者を送り、様々な文化・学問を学んで持ち帰っていました。いわゆる「遣唐使」です。前の中国統一王朝「遣隋使」の頃を含めると、20回以上もの航海の記録が残されています。今では考えられないほど小さな船で、洋上で方角を見極める技術もままならない時代に、あこがれの地で学問を治めたいと願う若者たちを大勢乗せ、遣唐使船は命がけの航海を続けました。
平安時代に入って最初の遣唐使船に、仏教界の有名人が2人、大陸へ向かって出発しています。ひとりは最澄、もうひとりは空海です。最澄のほうが年齢も仏教界での格も上で、当時の空海はまだ無名でしたが、二人とも唐で多くを学んでいます。ただ、最澄は真面目に任期をまっとうしたのに対し、空海はあらかじめ定められた20年という期間を無視して2年で帰国。日本の代表として留学しているのですから、そんな勝手は許されないのですが、空海は語学、土木建築、薬学、そして密教など、今後の日本に役立つ学問を数多く収めていました。
最澄と空海が、その後の日本の仏教界に多大な貢献をしたことは改めて述べるまでもないでしょう。
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摂関政治:天皇よりエラいぜ!藤原氏一強時代は吉と出るか
奈良時代の後期、貴族同士の争いや寺社との対立、天皇の後継者争いなど様々な勢力争いが重なり合うように起きていましたが、桓武天皇が都を移したことで、再び、天皇を中心とした政治(律令)の仕組みを取り戻すことができたかに見えていました。
しかし、勢力争いの形も、新たな時代へ突入していたのです。
奈良から平安時代にかけて、大きな勢力を持っていた一族といえば、あの大化の改新で活躍した中臣鎌足を祖とする「藤原氏」。平安時代に台頭していたのが藤原北家です。
藤原北家の血筋である藤原冬嗣は、桓武天皇から代々天皇に仕え、大臣も務めた有力者でした。冬嗣は自分の娘や孫娘を天皇に嫁がせ、外戚関係(がいせきかんけい)を結び、権力を強めていきます。
そして、冬嗣の息子の藤原良房が、9歳で即位した清和天皇の摂政に。皇族以外で摂政になったのは良房が初めてでした。ここから、藤原一族による摂関政治が始まります。良房の息子の藤原基経は、光孝天皇のときに関白の座につき、藤原家の力はますます強まっていきました。
ところで、摂政と関白はどのように違うのでしょうか。
摂政とは、天皇がまだ幼少であったり病弱な場合に、全面的に政務を代行する職のこと。一方の関白の場合は、天皇の補佐・アドバイザー的な立場となります。
藤原家はこのような職に代々就くことができ、藤原一族以外を排除して、ますます力をつけていきました。
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