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日韓併合のスタート地点になった「日朝修好条規」とは?わかりやすく解説

1876年に起きた江華島事件のあと、当時の朝鮮王朝を開国させた不平等条約を日朝修好条規は、それ以降日本の朝鮮半島進出につながりました。日露戦争後にはついに1910年には日韓併合になり、日本の植民地化に成功したのです。日本がアメリカなどと結んだ日米修好通商条約には苦しめられながら、朝鮮王朝とは逆に朝鮮王朝にとって屈辱的な不平等条約を結ばせたといえます。この、日朝修好条規がなぜ結ばれ、それが日本と朝鮮王朝にとってどのような影響を与えたのかについて解説します。

朝鮮王朝を開国させた日朝修好条規とは

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1875年9月に事件が起こります。日本国海軍が朝鮮半島南部の江華島沖で訓練をしていたところ、朝鮮軍が砲撃を仕掛けたのです。それに応じる形で日本海軍の軍船は反撃して朝鮮軍を壊滅させる事件が起こりました。これを江華島事件といいます。ちょうど1863年に関門海峡で長州藩が外国船に砲撃したのに似ていますね。

その事件に怒った明治新政府は、事後処理として朝鮮王朝に対して、開国と通商条約の締結を迫り、ついに日朝修好条規を結ばせたのです。日本に有利な不平等条約でした。これをきっかけとして、日本は朝鮮半島への進出を始めたのです。

この、日本の朝鮮半島から中国大陸への侵略のきっかけになった日朝修好条規についてその背景から見てみることにします。

日朝修好条規の結ばれた背景

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もともと、日本の徳川幕府は朝鮮王朝を琉球王朝と同様に考えていました。江戸時代には朝鮮王朝からは朝鮮通信使が来ていたのです。朝鮮王朝は通信使の派遣は単なる儀礼として送っていたのですが、幕府はそれを朝貢貿易とみなし、属国扱いしていました

しかし、明治維新で幕府が崩壊し、新しい明治政府ができると朝鮮通信使を送ってこなくなったのです。

西郷隆盛らの征韓論は退けられたが

1873年に岩倉使節団の留守を預かった西郷隆盛らは、朝鮮王朝が明治の社会になってから日本に通信使を送って来なくなったのに憤ります。朝鮮王朝に西郷が兵を伴って訪問して日本との通商をさせること(征韓論)が決められていたのです。しかし、帰国した岩倉使節団の大久保利通らが反対して、覆され、西郷らは下野するという明六の政変が起こっていました。

朝鮮王朝は中国の宗主国清国にならい鎖国をしていた

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朝鮮王朝は、日本がアメリカの黒船で来日したペリーの強引な交渉によって20年前に開国していましたが、朝鮮王朝はまだ宗主国の清国にならって鎖国を継続していました。その清国は、すでにアヘン戦争やアロー戦争に敗れてすでに開国しています。でも、朝鮮王朝は依然として鎖国を継続し、日本とは江戸時代には天皇家への外交使節団を派遣していましたが、明治維新以降使節団が来なくなっていたのです。

もともと朝鮮通信使は、室町時代から続いており、江戸幕府は事実上の朝貢使節とみなして当時の琉球王国と同じ扱いをしていました。朝鮮王朝は、鎖国をしていたものの、清国や日本には通信使を派遣していたが、通商などは公式には認めていなかったのです。

そのため、明治に入って通信使を送ってこない朝鮮王朝に対して西郷らは憤りました。

しかし、結果的には征韓論は退けられ、日本は近代化に取り組んだのです。

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