どんな人物?江戸幕府老中・田沼意次の生涯とは
田沼意次は身分の低い足軽の家柄から幕臣にまで出世した大人物。しかしどうしても「金にまみれた悪徳政治家」というイメージがついて回ります。「田沼時代」と揶揄されるほど強い権力を持った田沼意次は、どのような人生を歩んでいったのでしょうか。まずは田沼意次の生涯を追いかけてみましょう。
生まれは紀州藩の足軽の家・父は将軍家の幕臣に
田沼意次は享保四年(1719年)、紀州藩士・田沼意行(たぬまおきゆき)の長男として、江戸で生まれます。
父・意行はもともと足軽の身分でしたが、時の紀州藩主・徳川吉宗が徳川将軍になることが決まり、吉宗によって幕臣として召し抱えられることになったのです。
この時の田沼家の石高は600石ほど。父の働きが評価されたこともあり、九代将軍・徳川家重の時代になると、意次は御小姓として幕臣の一員に加わります。
田沼意次の若いころの記録はそれほど多く残されていないようです。ただ、宝暦四年(1754年)の郡上八幡一揆(美濃国郡上藩)の審議に加わり、うまくまとめた功績が高く評価されています。意次はコツコツじわじわと出世を続けており、この頃には、田沼家の石高は1万石なっていました。
九代家重・十代家治:徳川将軍から信頼される田沼意次
田沼意次の出世と田沼家の石高加増から見てわかるように、意次は将軍・徳川家重から絶大な信頼を受けていました。家重は父・意行の時代から、田沼家を信頼し重用していたと伝わっています。
宝暦八年(1758年)相良城主に。相良城(さがらじょう)とは現在の静岡県牧之原市周辺にあった城で、江戸初期には徳川家の鷹狩りの場所となっていたところ。数年後、さらなる加増を受け2万石となった意次は、この地に城を築くことを許されています。
宝暦11年(1761年)、家重が亡くなり、十代将軍徳川家治の時代へ。家治も祖父・吉宗および父・家重同様、田沼家を頼りにし、意次はどんどん出世を続けていきました。
明和六年(1769年)には老中格(ろうじゅうかく)にまで出世。「老中格」とは「老中並」ともいわれ、要するに「老中見習い」のこと。安永元年(1772年)には相良藩5万7000石の大名に取り立てられ、名実ともに老中として辣腕を振るうこととなります。
父とともに徳川将軍から信頼され、わずか600石の旗本から老中にまでのぼりつめた田沼意次。安永八年(1779年)に老中首座の松平武元が亡くなり、幕政は「田沼一強」状態になります。
世にいう「田沼時代」!大胆な財政改革の結末は?
田沼意次が幕臣となった時代、徳川幕府は財政赤字に喘いでいました。
表向きは華やかでしたが、内情は火の車。ここにメスを入れたのが、誰であろう田沼意次だったのです。
意次は幕府の財政赤字を食い止めるため、重商主義と呼ばれる政策を打ち出します。
この頃まで、経済の中心は何といっても米でした。しかし米はその年の収穫によって相場の変動が予想され、経済の安定は見込めません。
八代将軍吉宗は享保の改革で年貢を増やし、財政を立て直そうと苦心しましたが、年貢の徴収には限界があります。
そこで意次は、一般庶民にも普及し始めていた貨幣に着目。お金をどんどん流通させることで経済の底上げをはかり、商人たちを儲けさせてそこからお金を取ろうと画策。お金のあるところから税を集めて幕府の財政難を解消できないかと考えたのです。
意次は自身の政策を進めやすくするため、各地の有力大名と親戚関係を結ぶなどして念入りに足固め。大胆な政策を次々と打ち出し、経済活性化を図ります。
これにより、お金はだいぶまわるようになっていったようですが、商人はどんどんお金持ちになり、貧乏人はもっと貧乏に。農民に不満が広がり、打ちこわしなどの騒動も起きるようになります。
幕府内でも、田沼意次に不満を抱く者が少なくなかったようです。
それまでにない、金儲け主義の政策の数々。「田沼意次=金に汚い・賄賂政治」というイメージは、こうしたところから定着してしまったのかもしれません。実際、田沼意次自身が賄賂をたくさん受け取って忖度していた、という記録が明確に残っているわけではないそうですが、この時代の人々には受け入れられず悪い噂ばかりが残った、ということなのかもしれません。
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最期はひっそりと……松平定信との対立と田沼意次の失脚
結果を出すためには大胆な政策も必要。ただ、田沼意次の政策では、商人たちを儲けさせるため優遇しすぎてしまい、贈収賄など悪いお金も飛び交うようになってしまいます。
こうしたことから、田沼意次への不満は日に日に高まっていきました。
そんなある日、意次のはからいで若年寄の職についていた息子の田沼意知(たぬまおきとも)が、江戸城内で佐野政言に刺されるという大事件が起きます。意知は八日間生死を彷徨い、三十六歳の若さで死去。この後、田沼政権に対する不満は最高潮に達します。
この頃、頭角を現し始めたのが、反田沼派の急先鋒・松平定信(まつだいらさだのぶ)です。
天明六年(1786年)に将軍・家治もこの世を去り、田沼意次は徳川将軍という後ろ盾を失って老中罷免・失脚となります。
老中を辞した田沼意次は、主だった家屋敷の明け渡しを言い渡され、蓄えていたお金も没収と厳しい処分。天明八年(1788年)、江戸でひっそりと死去。低い身分の家柄から将軍の側用人を経て老中へ。絶対的な権力を誇った田沼意次は、こうして七十年の生涯を静かに閉じたのです。
お金の力で財政の立て直し?!田沼意次の政治方針とは
江戸時代中期、大赤字を抱えて火の車だった江戸幕府の金庫。それを解消すべく、商人たちに積極的に商売をさせ、お金を儲けさせることで幕府の財政立て直しをしようとした田沼意次。赤字解消といえば年貢を増やすことくらいしか思いつかなかった人々にとって、田沼意次のやったことが斬新すぎたのか、結果、あちこちから不満が噴き出す結果に。後世の評価でも、田沼意次は金にまみれた悪徳政治家のような見方が多く、長い間「賄賂政治家」のイメージが定着してしまっていました。本当に田沼意次の政治は悪どいものだったのでしょうか。田沼時代の政治・政策について、もう少し詳しく見ていきましょう。
商業を盛んにして経済活性!田沼意次の財政改革
前にも述べたように、田沼意次はそれまでの「米」中心の経済から「貨幣」中心の経済へシフトしようと模索しました。年貢で財政立て直しをしようとすると、農民たちの負担が増えます。それを避けるため、別の形でお金を集めようとした……考えてみればごく当たり前の政策です。
そこで田沼意次は、商人たちに様々な営業権を与えます。たっぷり儲けた商人たちからたっぷり税金をとろうとしたのです。
当然、商人たちからは不満が出ます。そこで株仲間というグループを奨励。株仲間とは一般的に「商売上の特権をあたえられた同業者組合」のこと。その道のプロフェッショナルに特権を与えることで業界は安定するし、商人たちも新参者が幅を利かせることがないので安心して商売に集中することができます。
江戸初期、こうした専売制は認められていませんでした。しかし時代が進むとともに必要性が認められるようになり、田沼時代になると専売制万歳状態に。その代わり、商人たちには冥加金・運上金といったお金を幕府に納めるよう徹底させます。
うまくいけば、幕府の財政も潤うし善策のように思えますが、もっと儲けようと欲をかく者も。「地獄の沙汰も金次第」と言わんばかりに、お金で便宜を図ってもらおうとする商人たちや、自分の懐に入れてしまう役人が横行。まさに”山吹色のお菓子”の世界です。これは、田沼時代に限らず、現代にも通じることなのかもしれません。