幕末日本の歴史江戸時代

幕末の革命児「高杉晋作」長州藩屈指の切れ者をわかりやすく解説

高杉晋作(たかすぎしんさく)は江戸幕府に終止符を打ち明治時代へと向かう、激動の幕末を生き抜いた長州藩の若き志士です。彼の一番の功績は、庶民も参加できる「奇兵隊(きへいたい)」を作ったことでしょう。尊攘の志士として活躍するも、志半ばで残念ながら病気で命を落としてしまった、高杉晋作の人生とはどんなものだったのでしょう。

1.柳生新陰流(やぎゅうしんかげりゅう)の免許皆伝を得た晋作

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周防国(すおうのくに)と長門国(ながとのくに)を領国としていた、長州藩(ちょうしゅうはん・現在の山口県)で生まれた高杉晋作。小さなころからものおじしない、好奇心旺盛の子どもだったようです。少年時代は、勉強より剣術が得意で筋もよかったとか。後に、柳生新陰流の免許皆伝を得ています。少年期の武勇伝も、色々残しているようです。

1-1長州藩の中級藩士に生まれた高杉晋作

高杉晋作は天保10(1839)年8月20日に、長州藩の中級藩士高杉小忠太(たかすぎこちゅうた)と母ミチの長男として誕生しました。中級と紹介しましたが、上級藩士(上士)に近い待遇だったようです。萩市にある御屋敷は、萩城下の菊屋横丁にあり、近くには木戸孝允など他の幕末志士の生家もあります。屋敷は現在博物館として公開。産湯に浸かった井戸や自作の句碑、写真なども展示しているので訪れてみてはいかがでしょう。

7歳の時に藩校の明倫館に入学しました。長州藩の世子毛利定広(もうりさだひろ・後の元徳)と同年齢で、学友としても仲が良かったようです。嘉永7(1854)年の16歳の時に、定広に従って一時江戸に出ました。その時に晋作は、再来したペリーの黒船を見ています。実際に見た黒船には、衝撃を受けたことでしょう。

19歳とだいぶ後になりますが、吉田松陰(よしだしょういん)が開く私塾松下村塾(しょうかそんじゅく)にも通っています。ほとんどが下級武士の子で、身分も高く一目置かれる存在でした。日本の初代内閣総理大臣の伊藤博文(いとうひろぶみ)も頭が上がらなかったといわれています。晋作の永遠のライバルで長州藩医の子久坂玄瑞(くさかげんずい)と出会い、二人は「松門の双璧」と称されましたが、一番の秀才は久坂玄瑞の方でした。松陰の門下ということは、もちろん後に攘夷派として活躍します。

2-2高杉少年の武勇伝?

晋作の少年期にはちょっとしたエピソードが残っています。ここでは、現実の話かは今となっては不明ですが、“高杉晋作の幼いころの武勇伝?”とはどんなものでしょう。

1.天狗のお面にまつわるエピソード

伊藤博文などと遊んだお寺には、子どもなら誰もが怖がる真っ赤な天狗のお面がありました。もちろん近所の子どもたちは、怖がって側に寄りたがりません。でも、晋作は子守に、「寺に連れて行け!」とせがんだようです。

どんなことにも動じず興味を持つ子だったということが分かります。枠にとらわれない性格は、このころに芽生えたのでしょう。この天狗のお面は現在も、晋作の生家の近くにある円政寺に飾られています。

2.大人の横暴に立ち向かう幼少期の晋作

凧で遊んでいた晋作少年の凧が地面に落ちたことに気づかず、一人の武士が踏んでしまいました。凧の持ち主が子どもで、謝らずに立ち去ろうとした武士を呼び止め堂々と意見し、土下座までさせたというエピソードです。

この話からは、晋作の正義感の強さを感じることができますね。

2.行動力はお墨付き!晋作の青年期

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江戸と萩を行ったり来たりとこのころの晋作は、行動派で色々なことを体験しています。江戸への遊学や結婚、就職や上海使節団に選ばれるなど、生き甲斐を感じていたことでしょう。それでは、晋作の青年期についてご紹介します。

2-1恩師松陰の死

松下村塾で一年学んだ後、江戸へ遊学しました。安政5(1858)年、江戸の昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんしょ)に入学します。この学校は幕府の学校です。残念なことに、授業内容が古臭いと帰国しました。

江戸にいる時は、安政の大獄で江戸牢に捕らえられた吉田松陰に差し入れをするなど恩師に尽くしています。この時の松陰との会話は、一生忘れられないものとなりました。

「男の死場は何処でしょう。」と晋作が松陰に尋ねます。

その返事は、

「死んで名を残すことができるなら、いつでも死ねばいい。だが、生きて大きな仕事を成せるならいつまでも生きるべきだ。」

だったようです。

その後、晋作が江戸を離れた10日後に松陰は処刑されました。晋作が松陰の死を知ったのは、萩に戻ってからでした。

2-2絶世の美女と結婚する晋作

高杉晋作は、万延元(1860)年に22歳で、同藩の山口町奉行で格上の井上平右衛門の娘「雅(まさ)」と結婚しました。格上だけでなく、16歳だった雅はかなりの美人で誰もがうらやむほどの女性だったとか。実は、晋作は周りに30歳までは結婚しないと公言していたものの、松陰の死後悲しみに暮れる晋作の様子に絶えかねた、父小忠太の進めにより結婚したようです。

結婚後は、母校明倫館の寮の舎長となります。しかし、海軍の蒸気船の操船技術を学ぶために江戸に行きました。しかし自分には向いてないと断念し、各地を巡る旅に出ます。見聞を広げながら各地を周り、佐久間象山(さくましょうざん)などの、知識人との面会も果たしました。

結婚後も定着しない晋作には、夫婦の時間はほとんどありませんでした。でも、手紙のやり取りは頻繁で、オランダに行った時などは、オランダ製の布で作った帯などをお土産に送っていたようです。

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