第二次世界大戦終結に向け開かれた「ヤルタ会談」とは?わかりやすく解説
- 1945年2月におこなわれたヤルタ会談とは
- ヤルタのあったクリミア半島はどんなところ?
- 第二次世界大戦の終結と戦後に向けた会議
- ヤルタ会談で話し合われたのは
- ドイツ降伏後のヨーロッパについての論議
- 国際連合構想における常任理事国の拒否権問題
- ヤルタ会談でおこなわれた密約とは
- 太平洋戦線へのソ連参戦の密約
- ヤルタ会談の密約の影響は現在も存在する
- ヤルタ会談で話し合われた戦後の処理協定は守られなかった
- ソ連の東欧占拠によって東西冷戦の勃発
- 常任理事国の拒否権によって国際連合は力を発揮できず
- 結局、ヤルタ会談は大国のエゴのぶつかり合いだった
- 現代のG7サミットに似た性格のヤルタ会談
- 植民地の独立は認められたが大国の利権絡みの独立で地域紛争は絶えず
- 大国のエゴではなく発展途上国への思いやりが必要
- 世界には難民が1億人以上おり、飢餓に苦しむ人はさらにその何倍もいる
- ヤルタ会談は第二次世界大戦後の世界を決めたが絵に書いた餅だった
この記事の目次
1945年2月におこなわれたヤルタ会談とは
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ヤルタ会談は、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線の行方が見えてきた1945年2月4日から11日にかけてクリミア半島の保養地ヤルタでおこなわれた会談です。アメリカ合衆国のルーズベルト大統領、イギリスのチャーチル首相、ソビエト連邦(ソ連)のスターリンが参加した首脳会談でした。参加国は3ヵ国と少なかったものの、1週間をかけて戦争後の、あるいは戦争を終わらせるための話し合いがおこなわれたのです。
期間が長かったのは、やはりヨーロッパ戦線の行方が見えただけに3ヵ国とも余裕があったのでしょう。
クリミア半島は、最近、ロシアがウクライナから領有権を奪って話題になったところですね。ロシア内では保養地として知られ、過去からロシア帝国とオスマン帝国などがクリミア戦争でその領有権をめぐって戦いが繰り広げられてきた地域です。
このヤルタ会談では、戦争後のヨーロッパや、まだ連合国との戦争で抵抗を続けていた日本との戦いなどの問題について話し合われました。
その詳細について見ていきましょう。
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ヤルタのあったクリミア半島はどんなところ?
黒海に臨むリゾート地にあり、ロシア領となってからは、ロシア皇帝であったロマノフ家の離宮であったリヴァディア宮殿がありました。そこが会談の会場となりました。しかし、実際には事務レベルでの話し合いが1944年後半からおこなわれており、ヤルタ会談はその確認の場となったと言われています。
第二次世界大戦の終結と戦後に向けた会議
1945年に入るとソ連はドイツを撃退してポーランドを占領し、ドイツ国境に達していました。そのため、米英をはじめとしたヨーロッパ諸国は、ソ連が共産主義を拡散させて、資本主義の本質である個人の土地などの所有権を否定させることを恐れていたのです。したがって、ソ連の東ヨーロッパへの進出を抑える目的で首脳会談を設けたのがヤルタ会談でした。
欧米の大国はすでに戦争後の世界について話し合いをしており、国際連合についても設立が予定されていました。そのため、第二次世界大戦の終結に向けて連合国側で話し合われた会議は、ヤルタ会談前後にも、マルタ会談、ポツダム会談などがおこなわれているのです。
ヤルタ会談で話し合われたのは
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共産主義の拡散を恐れる米英と領土の拡大を目指すソ連の対立から、その妥協策がそれ以前から話し合われていました。その結果として、ヤルタ協定が結ばれたのです。しかし、会談では、協定に盛り込まれなかった密約がありました。
まず、ヤルタ協定に盛り込まれた内容を見てみましょう。