- 政治家になる前のチャーチル
- 勉強が不得意だった少年時代
- 軍人・従軍記者として各地を転戦
- 捕虜収容所からの脱出
- 政治家としてのチャーチル
- 庶民院議員選挙での当選と所属政党の変更
- 第一次世界大戦でのチャーチル
- 反共産主義者としてのチャーチル
- 反ナチスを唱え、チェンバレン内閣の宥和政策に反対
- チャーチル政権の発足とナチス=ドイツとの戦い
- ヒトラーと戦い、イギリス国民を鼓舞する不屈の首相
- ドイツに対抗するためにチャーチルが行った外交戦略
- ヤルタ会談への参加と第二次世界大戦の勝利
- 第二次世界大戦後のチャーチル
- 選挙に敗北し、アトリーに政権を譲る
- 反共主義者チャーチルの「鉄のカーテン」演説
- 第二次チャーチル内閣
- 反ナチス・反共産主義を貫いた硬骨の政治家
この記事の目次
政治家になる前のチャーチル
ウィンストン=チャーチルは1874年、名門であるマールバラ公爵家の一員として生まれました。父のランドルフ=チャーチルはマールバラ公爵の3男で、庶民院議員に当選。息子のチャーチルは父にあこがれて政界入りを目指します。父の勧めでサンドハースト王立陸軍士官学校に入学したチャーチルは、卒業後に軍人としてイギリスの植民地に赴任しました。文章の才能があったチャーチルは従軍記者・文章家としても評価されるようになります。
勉強が不得意だった少年時代
1882年、7歳のチャーチルは父の決定で聖ジョージスクールに入校しました。学業は苦手だったといいます。学業不振のせいからか問題行動が多く、校長から鞭打ち刑に処せられることもありました。アメリカ出身で、イギリス流の厳しいしつけを嫌った母の意向で退学し別の学校に入ります。
1888年、イギリスの私立学校であるパブリックスクールの一つであるハーロー校に入学しました。ここでも、成績は芳しくありません。しかし、学校の授業の中で軍事教練には興味を示し、射撃やフェンシングなどで好成績をおさめます。
成績が振るわないチャーチルはハーロー校の中でも「軍人コース」に入り、王立士官学校への入学を目指しました。1893年、チャーチルはサンドハースト王立陸軍士官学校に入学。騎兵隊の士官候補生になります。翌年には士官学校を卒業し、騎兵将校として陸軍に配属されました。
軍人・従軍記者として各地を転戦
騎兵将校となったチャーチルは1895年におきたスペイン領キューバでの反乱に自ら志願して従軍します。この時、チャーチルは新聞社と特派員契約を結びました。チャーチルは軍人としてのキャリアと従軍記者としてのキャリアの両方をキューバでスタートさせます。
キューバから帰国後、チャーチルはイギリス領インドに赴任しました。インドではバングラデシュ方面で起きたパシュトゥーン人の反乱鎮圧戦に参加。その時の記録を出版し好評を得ます。
スーダンに赴任した時はマフディーの軍とも交戦。その時も、従軍記録を書いて出版します。学業は振るわなかったチャーチルですが、文章家としての才能はあったようで、彼の書いた従軍記は高い人気を得ました。
捕虜収容所からの脱出
1899年、イギリスは南アフリカにあったオランダ系移民の国であるトランスヴァール共和国とオレンジ共和国を併合するための戦争を起こしました。イギリスの目的はトランスヴァール・オレンジ両国でとれるダイヤモンドなどの鉱産資源を得ることです。
チャーチルは新聞社と契約し、民間人として南アフリカでの戦争に従軍しました。ところが、チャーチルが乗った列車が敵軍に襲撃されてしまいます。チャーチルは列車に乗っていたほかの人たちと一緒に捕虜となりました。
チャーチルは民間人に偽装したイギリス軍人ではないかと疑われてしまいます。このままでは命が危ないと考えたチャーチルは捕虜収容所の便所の窓から脱出。なんとか、逃げ出すことができました。チャーチルはしばらく南アフリカで軍人として戦った後、イギリスに帰国しました。
政治家としてのチャーチル
チャーチルは父であるランドルフ卿のように政治家になろうと志します。3度目の挑戦で庶民院議員に当選したチャーチルは第一次世界大戦の時には海軍大臣となりました。1930年代にナチスドイツや社会主義が台頭すると、チャーチルはどちらも危険なものとして激しく非難します。
庶民院議員選挙での当選と所属政党の変更
1899年、チャーチルは陸軍を除隊し庶民院議員の選挙に保守党から出馬します。しかし、この時の選挙は自由党に有利で、チャーチルは落選してしまいました。
南アフリカでの捕虜収容所からの脱出劇で知名度を上げたチャーチルは1900年の庶民院議員選挙で初当選。政治家としての第一歩を記します。
このころ、保守党では保護貿易の主張が高まっていました。自由貿易を主張するチャーチルは保守党内で孤立。自由党への移籍を考え始めます。1904年、チャーチルは保守党から自由党に鞍替えして立候補し当選しました。
1908年に成立したアスキス内閣でチャーチルは商務大臣に就任します。その後、内務大臣や海軍大臣を歴任しました。1920年代、自由党は労働党の連携を模索。これに失望したチャーチルは反共産主義の立場を貫くため、自由党を離党し保守党に復帰します。
1924年に保守党議員として再選して以降、チャーチルは保守党の政治家であり続けました。
第一次世界大戦でのチャーチル
チャーチルがアスキス内閣で海軍大臣を務めていた時、第一次世界大戦がはじまりました。イギリスはフランス・ロシアとともに、ドイツやオーストリア、オスマントルコなどと戦います。
戦争中、チャーチルは戦車の開発を指示。1916年のソンムの戦いでマークI戦車が実戦に投入されました。
1915年、ロシアからのオスマントルコを圧迫してほしいという要求にこたえ、チャーチルはイギリス艦隊をオスマン帝国の首都であるイスタンブール周辺に派遣します。イギリス艦隊はガリポリに上陸し、イスタンブールに迫ろうとしました。
しかし、オスマントルコ軍を率いるムスタファ=ケマルらの活躍によりイギリス軍の攻撃は失敗。チャーチルは失敗の責任をとって海軍大臣を辞職しました。1917年に成立したロイド=ジョージ内閣で、チャーチルは軍需大臣・陸軍大臣などをつとめます。
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